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「ぐるりのこと。」 [映画]

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寛解というのは、病気の症状が落ち着いた状態を保っている、というような意味合いの医学用語。
原因が特定・根絶しづらい病気、癌とか白血病、精神疾患なんかの場合によく用いられるらしい。
完治ではない。再発症するかもしれない。
けど、とりあえず調子イイじゃん、ってことで。

で、このお話は、寛解を描いていると思った。
翔子の病気の寛解。夫婦の寛解。家族の寛解。社会の寛解。

翔子が追いつめられ、壊れていく姿に重なって、’90年代を象徴する出来事や事件のモチーフが挿入される。
翔子の薄暗い気持ちと、混迷を増す社会の薄暗さは連動している。
そこに、翔子の兄夫婦や母親が出入りし、ぎこちない家族の姿も覗く。
じわじわと症状があらわれてくる感じ。

鉛筆を走らせたり、絵具をのせたり、描画している場面が丁寧に差し挟まれ、非常に印象的。
描画シーンは認知療法なのだと思う。
自分がなにをどのように感じているかを記述し、症状を客観的に把握しようとする。
病の姿をどのように認識するか、ということ。

カナオは法廷で裁かれる犯罪者を描く。
鉛筆の描線を重ねて、人物の様々な向き、表情の細部をスケッチする。ほとんど色彩はなく、形態の特徴を追って描画している。
さながら、’90年代の肖像を描き出すようでもある。カナオは社会の闇、病みを認知する。

また、認知療法は記述することそれ自体がそのまま治療である。

翔子は鮮やかな色彩で身近な草花を描きはじめる。
翔子の描画は、輪郭を写し取った本紙に彩色を施すシーンがほとんど。画材屋で顔料を手にする場面なども含めて、色彩が強調されている。
たっぷり絵具をふくませてのびやかに筆を運ぶ。豊かに潤いを取り戻してゆく翔子の心のうち。

翔子は病まなければならなかった。発症しなければ、もっと酷いことになっていた。
そして、夫婦が寛解に至るには、翔子の病気が必要だったのだ、と思う。

家族の寛解は、カナオが描いた翔子の父の肖像によってもたらされる。
わだかまりは消えないし、完治しない。瓶が割れて水はこぼれ、もとには戻らない。二度と。
それでもいい、と受けとめることができたなら、病は病であることの意味を失う。即ち、寛解。

終盤の法廷シーン。判決をうける被告が、反省も後悔も微塵もなく、遺族を侮辱する非道な態度をみせる。
それでも、カナオは描く。犯罪が社会の病であるなら、犯人はその症状である。
ならばこそ、描いてみせる。受けとめようとする。
「絵描きなら、あの顔を描かなきゃ」


治らないかもしれない。治らないだろう。
でも、うまく過ごすことができれば、それでいい。病とともに生きればいい。
とりあえず、それでイイじゃん。





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