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「バベル」 [映画]



これは、公開されたときに観とくんだったかなあ、と珍しく後悔。
先般、映画を切り口にゼロ年代への感慨をめぐらす、みたいな記事を書いたりしたけども、「バベル」もそこに入れたい、と思いましたのです。

つか、公開時は菊池凜子の扱いが大騒ぎされ過ぎ、興冷めして観てなかった。あんまりゴシップ的な話題が先行してると、鑑賞というより好奇心を満たす為の見物に堕してしまい、作品として観られなくなる感があって、もう覿面、へなへなに萎えるのよな。
そういう訳で、菊池凜子もフツーの役者として観られるようになった、という意味では、適したタイミングではある。個人的に。


他者に直面するということ。どうしても理解できないものごとや人物や出来事や世界があって、否応なくそこに直面させられる、直面せざるを得ないこと。
みたいなことを、新世紀初頭に観想したわけなんだけども。

「バベル」は、そのことに対する畏怖と痛みに満ちている。
膨大な厚さの孤独が迫ってきて、重量と質感が肺と心臓を圧する。
それでいて、その孤独に耐える、耐えようとする人の姿に感じ入る。
絶望的に如何ともしがたい、圧倒的なものに、小さく弱いものが何も持たずに、裸で向かい合っている、その姿。佇まい。
熱く湿った小さな子どもの手で、ぎゅっと掴まれる感触のような。
相手が何か言おうとしているのにうまく言えなくて、汲み取ってあげたいのに及ばなくて、互いに諦めて噤んでしまう沈黙のような。
そんなような、感慨、を得た。


言葉が通じる者同士が伝わらず、言葉の通じない者には伝わる。
言葉が通じないからこそ伝わる。
それは、妻を助けたい切実な思い、とか、必死さ、とかそういう、伝える意志の強弱とかの問題ではなくって。
アメリカ人だとかモロッコ人とかメキシコ人とか、聾だとか聾じゃないとか、夫とか妻とか父とか娘とか、そういう背景や属性を抜きに、どれだけ向かい合えるか、ということ。
例えば苦しんでいる相手が居て、その人の国籍や年齢や所属に関係なく、ただ苦しんでいる、ということだけを、どれだけ受けとめられるか、どれだけ応えられるか。
どこかの誰か第三者ではなくって、わたしの相手、二人称のあなたが、紛れもなくわたしに助けを求めている相手が居る。どれくらいの強度でそのように思えるか。
ていうようなこと。

言葉はコミュニケーション手段ではなくって、むしろそれを阻害する。
この映画が「バベル」と題されるのは逆説的でキいてる。


日本のエピソードは一番刺さった。
チエコの貧相な裸形は、ひどく餓(かつ)えて痛々しく、剥き出しに孤独が絶叫していて、とても堪えた。
お話的にモロッコやアメリカ~メキシコのパートとあまり噛んでないように思えたけど、これがなかったらまるで印象が違ってた気がする。

電話しながら泣き崩れるブラッド・ピットの姿にも掴まれた。
言葉に代替しがたいものを抱えるときに、言葉しかない。

途方に暮れる。

せめて、抱きしめたい。
あなたを。
世界を。





タグ:映画 バベル
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