SSブログ

磯江毅 展 [展覧会、イベントなど]

isoe-iwashi.JPG磯江毅展に行きました。

→練馬区立美術館webサイト「特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」紹介ページへ

→奈良県webサイト「特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」奈良県立美術館 紹介ページへ

→彩鳳堂画廊webサイト 磯江毅紹介ページへ




最近、写実絵画専門の美術館・ホキ美術館がオープンしたり、NHK「日曜美術館」でも野田弘志や諏訪敦が特集されたり、写実表現が注目されてるらしいですな。

デュシャン→ウォーホル以降なのかな、現代美術の傾向として、観念が先行する表現が極まって、極端な話「これは絵です」って書いた紙を額縁に収めたような表現にまで行き着いちゃってる感がありますのな。
ていうところで、記号とか言葉に解体されない造形性の追求、その可能性として写実表現、ていうことなのかなあ、と。


で、写実というのは表現の手法・技法でありつつ、また主題でもあるんですよな。
対象をありのまま描く、主観を交えずに客観的に視たまま描く。
と、言葉では単純に言ってしまえるけれど、ここにはすごーく難しい問題を含んでいる。

主観を交えず、っていったって、対象を視る自分、対象を描く自分ていう主観があって、その視線、眼差しはまったき自分である。自分であることからは逃れられない。

また一方で、その主観と信じている自分の眼差しというのも、属している社会、文化、これまで観てきた表現などの影響を受けていて、その影響により対象のうちの何かを視ているし、同時に何かを視ていないかもしれない。
どれだけ対象を視る眼差しが自分だけの絶対的な眼差しであるのか、ていうこともある。

自分が何を視ていて、何を視ていないのか、何を描き、何を描いていないのか。
どこまで視ることができて、どこまで描くことができるのか。


磯江毅の絵と向かい合うと、その問いに真摯に迫る画家の姿勢が感じられる。
とても静かなんだけれど、すごく熱い。修行僧の熱狂、みたいな。

こういうふうに表したい、みたいな、画家の自己表現欲求はない。
むしろそういうエゴを厳しく抑制する強い意志がある。その厳しさを熱いと感じるのかも。

画面にはただ、対象のものや人物がありありと在る。その、在るってことが凄い。
そこにものが在る、人物が居る、ということが怖いほどに感じられる。
存在する、ということが大変な奇跡のように思えてくるほどに。
ほとんど、畏怖を覚える。

例えば、磯江作品が部屋に掛けてあったなら、えっ? て振り返ってしまうと思う。
そこに誰か居るの? みたいな、存在感、気配の濃密さ。
けれども、ものや人物はそこに存在するということ以外に何か訴えたりはしない。

磯江はこんなふうに言ってる。
「表現するのは自分ではなく、対象物自体であるということです。(中略)角膜に受動的に映る映像を根気よく写す行為ではなく、空間と物との存在のなかから摂理を見いだす仕事だと思うようになったのです。物は見ようとしたときにはじめて見えてくるのです。」(個展に際して 2004年4月)


描写はもちろんとても細密なんだけれど、意外とさらっと省略がキかされてるとこもあったりして、写実=細密ではないことに気づかされる。
例えばチラシにもなってる「鰯」、鰯の載った皿の右端はふわっとピントがぼかされてて、皿の光沢の描き込みも結構さらっとしてる。細密に描かれている鰯にしても、骨の向こう側の身の描き方はそんなに詳細じゃない。整理されてる。

他の静物や人物作品の背景の黒とか余白部分、なにも描かれていない部分ていうのも、何故かそこにこそ“そこに在る”“存在する”ということが描かれているようで思わず手を伸ばして確かめてみたくなる。
つまり、そこには何もない空間が“在る”。


ところで、磯江作品を間近で観て興味深かったのは、わざと画面に汚れというか痕跡が付されていること。
正確に描くために計った線の跡とか、コップの輪じみみたいな汚れがわざと加えてある。その痕跡によって、描かれたものの存在感とは別に、描く行為の生々しさを感じて、なんかドキっとする。

手を伸ばして触れてみたくなるくらい、引き込まれて見入ってるのに、「あ、これ絵なんだっけ」って引き戻される。

描きかけの未完の部分を残してあるようなところも同じく。
それらの痕跡によって描かれる過程が感じられるようで、その過程をうかがい知ることで、描くという行為の断面を見るような気がする。

ヘンな話、それらの痕跡を残さずに完全に仕上げられてしまうと、「すごーいホンモノみたーい」「写真みたーい」な観方に陥ってしまいそうな気がする。

わたしたちは普段、大してものをよく視ていないから、例えばリンゴがあれば、あ リンゴ、って確認した時点で視るのを止めてしまっている。
絵に対しても、「ホンモノみたーいすごーい」で止まってしまいがち。

そこへ、生々しく残された描画の痕跡や未完の部分によって、観ていないものごとへの注意をかき立てられる。



磯江作品がこんなにまとまって観られる機会はなかなかないし、ちょっとでも興味もたれた方はぜひぜひ実際に間近でご覧になられることをお勧めします。まだやってるよ。結構会期長い。

観念と記号のアートなら印刷やwebで用が足りちゃったりする(むしろそっちのほうが本領だったりしちゃう)場合もあったりするけど、磯江作品は絵と向かい合う体験にこそ、観る・視ることの意味を問われるので、ぜひに足を運ばれたし。

会期は10月2日まで、その後、奈良県立美術館に巡回。



 

↑展覧会場で、この画集の増補版(2011.7.5発行)が販売されてました。
増補でないほうのモト版(2009.3.26発行)と内容がどう違うのかは比べてみてないのでわかりません。美術出版社のwebサイトにも載ってなかった。

追記(2012.1.4)amazonにも増補版出てた。モト版すごい値段だね。

タグ:磯江毅
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。