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松井冬子展 [展覧会、イベントなど]

「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」於、横浜美術館。→公式webサイト

展覧会タイトルの「世界中の子と友達になれる」は、藝大の卒業制作のタイトルだそうな。
子どもの頃、いろんな子と友達になり、どんどん交友が広がる経験から、こんなふうに世界中の子と友達になれる、と確信を抱いたものの、長ずるにつれ、実際それは無理なことだと悟る。
ただ、その確信を抱いたことを強く覚えていて、それは妄想であり狂気に通じるものなのではないか。ていう掘り下げから制作された作品。
松井の出発点というか、起点になる作品であるらしい。

密集して垂れ下がる藤の花の房、左側に少女が花房をくぐって誰かに呼びかけるような動作をしていて、右下には空っぽの揺りかご。
ぱっと見、幻想的に満開の花の中、揺りかごで眠るべき子ども・少女の妹とか弟にあたる赤ん坊を探して隠れんぼ、みたいな、美しい風景にも見える。つか、そう見えた。蜂に気づいてなかったもんで。
が、近づいてみると花にびっしり蜂がとまっていて、黒々としているのに気づいて、ぎゃーっ、て慄いた。
少女の手足は赤く染まってて、血を思わせる。
いったん気づくと、画面を埋め尽くす藤の花が遠景を妨げて塞いで閉じこめるみたいだし、ただならぬ緊迫に満ちた恐ろしい光景のようにも見えてくる。

で、この、「気づいてぎゃーっ」て感じは、世界中の子と友達になれる、ていう子どもの全能感が醒めて、世界はお前のものではない、と思い知らされる瞬間に近いものがあるのかもしれない。全然違うかもしんないけど。

気づくのはつらいことかもしれないけど、子どもの全能感=妄想=狂気から醒めないのは、グロテスクなことであろうな。


他の作品も含め、全体に、観ていて痛いというか痛痒いというか、身体的な痛さ、皮膚にクる感じで痛い。
しかも、皮膚を擦られるようなヒリヒリとか、刺されるようなチクチクとか、骨まで達してグリグリ肉を割かれるような激痛とか、さまざまな痛さのバリエーションが揃ってる感じで具体的に痛い。

同時に、なんか清々しいというか、妙に胸がすく。復讐を遂げた後の気持ちって、こんな感じじゃないのかな。
あれだ、椎名林檎の初期、「歌舞伎町の女王」とか「勝訴ストリップ」とか聴いたときの印象に近いような気もしてる。

徹底して古典的な日本画の画法が用いられているのも、表面は涼やかに端正でも内心では情念めらめらたぎってる、みたいに感じられて激しい。
肉感的なボリュームで迫る西洋画のばばーんと自己主張!よりも、抑えて控えめにみせるからこそ、情念の強さがより窺われるような佇まい、というか。
洗練に洗練を尽くされ極められた線、純度の高い色彩といった日本画の特徴も、情念の純度を高めているように思う。混じりけのない痛み、情念。


内臓や神経を垂らして晒け出されてたりもするんだけど、そういう様にも、気持ち悪いというよりも、むしろそこまで“晒け出す”“見せつける”天晴れな爽快さみたいな印象のほうが強い。

骨とか内臓とか神経とか、実際の解剖の素描を経て、非常に丁寧に観察されていて、それ自体はグロいもんでもない。
普段は全然意識しないけれど、自分の体にも確かにこれらは収まって機能して自分を形成しているはずのもの、ヒトの身体を成すもの、わたし自身の一部でありながら忘れられているもの。
そういうふうに観える。

痛みとは、自分の身体に復讐されることなのかも。


ところで、そもそも復讐したい=相手に自分の苦痛を味わわせたい、って気持ちは、自分の気持ちをわかってほしい、と共感を求める気持ちなんだと思う。
復讐って言葉の印象は物騒だけど、復讐を求める気持ちそのものは素朴なものなんだろう。

“わたしの痛みを知れ”と言う気持。

で、その痛みをわたしは知っている、と思った。
そして、その痛みこそがわたしを守っている。
子どもの全能感にも似た妄想、限界のあるヒトの身体を持つことを忘れる狂気から醒めさせる。

痛みは、わたしを身体に繋ぎ止める呪詛であり、同時にわたしがわたしであること=自我を守る祝福である。
(けれども、耐えきれないほどの激しい痛みには、しばしばヒトは狂う。)

なんてなことを思ったが、なんか既読感・既視感(汗)。
どっかで読んだ本とか誰かの言が混ぜこぜになってるような気もする。鷲田清一先生の本とか。


古典絵画・幽霊の絵や九相図から想を得て描かれた作なども、日本古来の怨霊とか幽霊の概念や、無常の死生観などをも思わせる。そして、それを現代社会にあてはめて蘇らせるような。
現代の幽霊・怨霊とは何か。
例えば、忘れられた痛み。死にゆく身体。目を背けられ、ないことにされる死。

この作家は本人の容貌が大層美しいことでも有名で、展覧会場でも、こんなきれいな人がどうしてこんな怖い絵を、とか、もっときれいな優しい絵描けばいいのにね、みたいな言も小耳に挟んだりはした。
まあ、そうしていて欲しい気持ちもわかる。痛いのしんどいから。
ただ、このきれいな人は、きれいな人がニコニコ愛想よくしていたり、きれいな人が描いたきれいで優しい絵を観て慰められたりする人たちに向けては描かないんだろうなー、と思う。


ところで、この作家は自作に詳細な解説というか、解読を付けてて、例えば、空の揺り籠は堕胎を意味している、とかいちいち添えられてるのね。
どうも自分で自作を解釈、自己分析・自己言及することも含めての表現であるらしいんだけど、なんかそれはちょっと、どうなのーぅ、という気もする。
なんつーか、種明かし台無し感つうか、観る側の解釈が狭められるような感じがしちゃうつうか。
言葉でこれはこうです、って言えるものなら絵を描く必要なくね? とか思ってしまうもんだから。


ただ、この人の言葉もすごくおもしろい気がする。
言葉の選び方や、難解さと明解さの兼ね合い、語感やリズムなど、イマジネーションを刺激されて魅力的なので、それはそれで詩歌とか文学作品として表されたらおもしろそうだなーとか思った。




タグ:松井冬子
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