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「新聞一束」「残光」吉田健一 [書籍]

「戦争に反対する唯一の手段は。−ピチカートファイヴのうたとことば」ていうCDがあって、そのタイトルの由来が吉田健一の一文なのですね。

「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」

しびれる。
文もかっこいいんだけど、この一文がジャケット下方にさらりと流してあって、シンプルな表記ゆえに文のかっこよさが強烈にキく。ついついジャケ買いタイトル買いなんだけど、この文がどういう文章のどういう文脈で語られたものなのかっていうのはわからなかったのな。
そもそも吉田健一の著作を読んだことがなく、以来、一度読んでみたいなー、と、気になってたのでした。

あれこれ調べてみると、どうやら初出は新聞に連載された短文、「長崎」ていうコラムのようです。そも標題がつく性格の文章ではなかったらしく、単行本に纏められたり、そこからまたバラして足して纏めなおしたりされるたびに異なった標題がつけられたりしてるみたいで、探すのにはちょっと苦労した(後述)。


読。
拍子抜けするくらいあっさりした短い文で、気負ったようなところも全然なくって、ここだけ読んでもするっと流しちゃうかもしれないくらいにさりげない。
普通のテンション。平熱な、常温な印象。
長崎に赴いた際、被爆の跡を思わせるものが残っておらず、美しい街並みや公園が出来てきていることを観察している。そのことを喜ばしく思うことを滲ませつつ、「戦争に反対する最も有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度と再び……と宣伝することであるとはどうしても思えない。」と言う。
「戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人達も、見せものではない。古傷は消えなければならないのである。」(p.97)
そこに続けて冒頭の一文、
「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」(p.97)
と来るわけです。

新聞連載であるから時事に触れることも多く、戦後間もない時勢の、反戦平和や民主主義の希求が声高に熱く叫ばれる風潮に対して言及する文章もたびたび。
「戦争反対」ていう文もあって、そこではこのように言う。
「核戦争が恐ろしいから戦争に反対するならば、核兵器で威しつければ戦争に賛成することになる。もっと小さなこと、例えば、お前を殺すぞと言われるだけで賛成することになるかも知れなくて、大概そんなのがこの前の戦争に賛成した。戦争に反対するのは道徳上の要求であり、我々自身の都合からではない。我々はこれから本腰で戦争に反対しなければならない。」(p.158)

右とか左とか保守とか反体制とかどっちかに拠るのじゃなくって、そのときどきに状況を考えて自分の意見をしっかり持つってこと。
で、それがすごく普通で当たり前のことのように平熱で語られる。大人ってこういうことかと思う。

ところで、これらの時評コラム的な仕事は吉田健一の著作として突出してる訳ではなく、本来的な仕事は英文学や翻訳、また食い物や酒肴の話とかも評判であるらしい。
わたしが参照した「吉田健一著作集 第十三巻」(集英社)にも、「残光」と標題していくつかの短編が収められているのだけど、確かにお酒飲んだりご飯食べたりの描写がいちいちキいてておもしろい。

「出廬」っていうお話では、たちばな食堂っていうお店が舞台で、店の様子やそこを訪れる客の様態の描写がすごくイイ。特に美味とか洒落てるとか特別なお店という訳ではなく、おでんとか煮込みとか酢の物とか、酒の上とか並とか、フツーの品書きの並ぶフツーな食堂で、そのフツー加減、特別じゃなさが想像をくすぐる感じ。そこいらへんにありそうなお店の、濃厚な“そこいら感”ていいますかね。
で、劇的なお話って訳でもないし、食堂の主人の荒木さんと常連の煙草屋店主・三郎兵衛さんの日常と、ちょっとした出来事がさらっと描写される、その描写の妙が味わいどころな読みもの。

「邯鄲」ていう短編はまた可笑しくて、全編これ飲み食い享楽の顛末、しかも夢オチ。
温泉に出かけて飲み食いして気がついたら別の場所で、また違うものを飲み食いして、美人に化けた狐の酌で飲んで、お礼に狐うどんをご馳走して(狐は喜んで尻尾振ったりする。可笑しい)、またどっか別の場所でブルゴオニユうまーとかって飲んで、酔っ払っておいおい泣いて、かと思ったらでかいオムレツをうまーって食ったり、飛行機の小瓶の酒をあれこれ試したり、カレーライスをうまうま食って、終いにはカレーソースん中を泳ぎながらもりもり食って、カレーの中に沈みそうになったとこで目が覚める。何やってんだ(笑)。

お酒飲むとこは実に旨そう。わたしは下戸なのだけど、旨い飲みものっていう観念を味わうには上戸も下戸もありゃしないわけで、文章の酒ならわたしも飲めるのだ。うまうま。


出典の書籍について。
件の「戦争に反対する唯一の…」ていう文を有するコラム「長崎」の所収を整理すると、
(1)初出は朝日新聞「きのうきょう」欄、1957年(昭和32年)1月4日~6月28日にかけて連載。
(2)単行本「作法無作法」(宝文館、1958年(昭和33年)2月刊行)に「一枚半時評」と題されて所収。
(3)「作法無作法」から、「一枚半時評」他、新聞コラム的な性格の短文群が解体され、他の連載なども付け加えられて「新聞一束」(垂水書房、1963年(昭和38年)6月刊行)として単行本化、「籤つきの年賀状」と題されて所収。
(4)「吉田健一著作集 第十巻」(垂水書房、1963年(昭和38年)6月刊行)に所収。
(5)「感想B」(垂水書房、1966年(昭和41年)10月刊行)に所収。
(6)「吉田健一著作集 第十三巻(新聞一束 残光)」(集英社、1980年(昭和54年)10月刊行)に所収。

わたしは(6)の書籍で参照。他にも収められてんのがあるのかもしれないけど追いきれてません。
要するに「作法無作法>一枚半時評>長崎」と、「新聞一束>籤つきの年賀状>長崎」の二系統の纏めがあるっぽいのね。しかも全集に纏められるときにまたバラされたりしてる。
ちなみに「吉田健一著作集 第五巻(酒宴 作法無作法)」(集英社)には「長崎」は収録されていません。こういうのがちとややこしい。






タグ:吉田健一
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「欲望のオブジェ」アドリアン・フォーティ [書籍]

副題も含めると「欲望のオブジェ デザインと社会 1750-1980」、原題は「OBJECTS OF DESIRE Design and Society 1750-1980」。まんまだな。
デザインを学ぶにおいて必読の書、っていうことになってるらしいんだけど、実は読んでなかった。今さらな感もありつつ、読。

’94年に翻訳・発行されたデザイン評論なんだけど、今読んでもおもしろい。現代のデザインについても大いに当てはまる指摘がなされていて、しかも平明でわかりやすい。
あらゆるデザインが、デザイナー個人の表現ではなく、近代化へ向かう社会的な風潮、政治的な要請を受けての観念が表出された結果である、という観点で、詳細な資料と具体的な事例とともに論証される。今となっては自明のことと思われる気もするんだけど、そう思えるのもこの著作の影響によってデザインの社会学的考察が進んだ成果であるのかも。

目次立てを紹介してみます。

第一章 進歩のイメイジ
第二章 最初のインダストリアル・デザイナー
第三章 デザインと機械化
第四章 デザインの差異づけ
第五章 家庭
第六章 オフィスのデザイン
第七章 衛生と清潔
第八章 電気―未来の燃料
第九章 家庭省力化
第一〇章 デザインとCI(コーポレイト・アイデンティティ)
第十一章 デザイン、デザイナー、デザイン文献

第五章あたりから、射程が現代にまで及んできて、ほっほーぅ、てひざを打つこと多数。「あったかい家庭」像というのは、近代の所産なんすかー。労働の効率化がはかられたことにより、働くだけの場所つまりオフィスとか工場っていう場所ができて、そこでは個人は労働力に解体されて全人的な人格を奪われる、で、その苦痛を癒す場所、個人を取り戻す場所っていう観念として、「あったかい家庭」ってやつが出来てくるんですって。まー。その場所を実現するために適切な家具調度類を選びしつらえる、トータルなインテリアデザインの腕前がその家庭の奥方の器量に直結することになる。家具調度のデザインが単に機能性だけではなく、「あったかい家庭」像ひいては「あったかい家庭を創出するステキ奥様」像へと結びつき、インテリアデザインが過熱していく態。ほっほーぅ。

第六章のオフィスデザインの変遷具合もおもしろい。おもしろいっつか、プチむかつく。オフィスというのは主に事務労働職場ね。労働者の労働力を引き出すために、つか、サボらないように怠けないように効率よく働かせるために職場が整えられ、その意図があまりにあからさまで工場っぽく殺伐としてくる。そすっと今度は、工場との差異化がはかられて、自分ら事務労働従事者は工場で単純作業に従事する労働者とは違うのだ、と思わせるように居心地よさげに整えられる、という仕組み。実際のところ待遇も賃金も工場労働者よりいい訳でもないのに、なんかステキっぽい職場の演出によって労働者を釣る、っていうのは未だに有効かもしれん。所詮は雇われる側の身なれば、プチむかつきもするって話。

第八章の電気器具のデザインについても目からうろこが落ちる度高し。初期の電力使用はほぼ照明に限られていて、そうすると電力消費は夜間に限られて集中する。朝とか昼間にもご家庭で電気を使ってほしい電力会社の意向によって、ヒーターとか調理器具とか洗濯機とか掃除機、アイロンが開発され、いかに電気がクリーンで進歩的でステキな未来の生活をもたらすか、ていう観念がデザインに反映されて広範に訴えられた由。うわー。

などなど、いずれの章もかなり具体的な事例を挙げられ、ことこまかに図や資料が示されて、とてもわかりやすい。
でもってこれ読んでると、おのれ悪辣な資本家め、な気分になってきたりもするんだけども気のせいか(笑)。ていうか、18~19世紀の産業における、機械化、工業化、資本主義経済化の傾向は、あまりにも経済効率優先であったり環境への負荷が大きすぎたり、現代においては批判的に捉えられる事柄も多いから当然ちゃ当然なのかも。
それにしても、もちっと近代史を勉強せねばな。

良書ですが、惜しむらくは価格と入手困難。文庫化再販希望。図書館でフツーに借りられたし、とんでもない稀覯本ではないのかもしれないけど、必読って言われると厳しい。
また、主にイギリスの事例について語られているので、日本の実情に即した類書を期待したい。てか、ありそうな気がする。柏木博の著作とか。

’10.10.4 追記:再版されたようです! 定価も下がった!!


 


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「人間失格」太宰治 [書籍]

最近、太宰作品の映画化が相次いでるせいか、書店での扱いも華々しいですなー。
「人間失格」っていったい何社から出てんのかしら。文庫だけでも15社は下らない。カバー違いとかも含めればすごいバリエーションありそう。
Amazonのアフィリエイト貼ろうと思ったらえらいことになり、まあここはとりあえず初版の筑摩書房に敬意を表しておきましょうかね。

ココでも読めますね。
インターネットの電子図書館、青空文庫「人間失格」


太宰は高校生くらいに「人間失格」読んで鬱陶しくてうんざりして以来、ほとんど読まず嫌い。
ちなみにわたしの妹は「大変つまらない小説だったが忍耐力が養われたと思う」みたいな読書感想文を書いて教師を呆れさせたことがあるらしい。笑。
好き嫌い云々というよりほぼ縁がなかったんだけど、今読んでみたら違うかもなーと思って読んでみた。

思ってたより鬱陶しくない。かなり突き放してる感じ。へえー。
主人公の語りは、自分のことを徹底して対象化・客観化・相対化して批評しまくる書きっぷりなんすね。なので、共感して鬱々、ていう感じよりも、淡々と乾いてる。
つか、笑えたりする。ラストのヘノモチンのくだりは吹いた。

読めば読むほど、これは大マジで読むもんじゃないのでは? という気がしてくるんだけど、気のせいかな。
ひょっとして、ギャグなのでは。どこまでマジでやってるのかなー、と思わせるあたりがキレッキレに冴えてる。
いやそれは葉蔵の道化を演じる癖の悲しい顕れであるよ、という読み方もできんことはないだろうけど。

なんか映画版の「嫌われ松子の一生」みたいな印象。ていうかこの映画が太宰なのかも。松子がアパートの壁にごりごり書きなぐる「生れてすみません」も太宰由来でしたっけね。

井上ひさしの「太宰治に聞く」(文春文庫)に、「格好よくポーズをきめる(略)、そのたびに照れて含羞(はに)かんで、『なあんちゃって』と崩す。これが太宰の文体の、いや彼の文学の基調なのです」ていうくだりがあるそうなのだけど、まさに「人間失格。なあんちゃって」なんじゃないのかなー、などと思ってしまったわけなんだが、太宰ファンの方には不謹慎に思える読み方だったりすんのかしら。すいませんね。
でもそういう照れとか含羞なのだとしたらかなり好感です。

で、映画化だったら、生田斗真じゃなくって劇団ひとりとかどーだろう。
陰鬱な転落物語としても自虐炸裂のギャグとしてもいけそうな気がするんだけど。






 

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「デザイン学―思索のコンステレーション」向井周太郎 [書籍]

 素晴らしい書籍です。
 温かな知性、というか、血の通った学問、というか。善きものを愛し、世界を美しく豊かに幸福にかたちづくろうという決意と希望に満ちていて、心がじんわり熱くなる。
 素晴らしいな、向井先生は。
 向井先生は、武蔵野美術大学の基礎デザイン学科に長く携わってらして、この書籍は大学を退任する際の最終講義に加筆して纏められたもの。(講義受けたかったなー)

 この書籍の紹介の前にまず「デザイン学とは何か」ってことについて紹介しようと思ったんだけど、長文になっちゃったので別記事にしました。できればご参照ください。→記事「武蔵野美術大学 基礎デザイン学科」

 副題のコンステレーション(constellation)というのは星座を意味する語。この場合は、既に定型となっている星座を示すというより、ランダムな星の並びに星座を読み取ろうとする能動的な姿勢をも含んでいます。思索の星読み、って感じ。
 冒頭から順繰りを追って筋道だった考察を経て結論に至るという線的な論じ方ではなく、考察の鍵となる用語がアルファベット順に配されていて、それぞれの繋がりはふんわりとゆるみがある。遊びというか、余白があるっていうか。
 読み手はそれぞれの語をたどりながら、イマジネーションを膨らませ、語と語の間を繋ぐ余白にさまざまな考察、イメージを想起しながら読み進めていくことになる。

 別記事で述べたように、デザイン学が単に“見ため”だけを扱う学問ではない以上、その考察は多くの分野領域に渡ります。
 目次を参照するだけでもその視野の広さが伺えると思う。

Constellation〔a〕 abduction アブダクション―生成の根源へ、制作(ポイエーシス)の地層へ
Constellation〔b〕〔c〕 Bauhaus & cosmology コスモロジーとしてのバウハウス
Constellation〔d〕 degeneration マイナス方向への遡行と生成
Constellation〔f〕〔g〕 furi(miburi)=gestus 世界の生成プロセスとしての身振り
Constellation〔i〕 interaction 相互作用―呼びあい、触れあい、響きあいの生成
Constellation〔k〕 katamorph メタモルフォーゼと生命リズム
Constellation〔r〕 Relation/relation 均衡関係がもたらす新たな造形
Constellation〔r〕〔s〕 Rhythums/rhythm & Struktur/structure リズムの構造・構造のリズム
Constellation〔t〕 Trübe 生命の原像へ、生成の原記憶へ
Constellation〔u〕 Urbild 原像とメタモルフォーゼ
Constellation〔q〕〔w〕 Qualität/quality & Werkbund 生活世界の「質」と工作連盟(ヴェルクブント)運動
Constellation〔w〕 Weg/way 二十一世紀のあるべき生活世界への道
Constellation〔v〕〔w〕 value & wealth あるべき生活世界の形成―真の価値と富とはなにか

 個々の章を独立して読んでも興味深いのだけれど、読み進むうちにそれぞれに示された語が結びつき、その組み合わせや結びつき方によって新たなイメージや考察や取り組むべき課題が見えてくる。
 例えば、〔i〕や〔u〕の章で語られる、色や形の位相の往還には、〔d〕での混沌への遡行、〔f〕の振り幅や息遣いが想起されるし、また[t]のあえかな色彩のゆらぎ、空気感の捉えにも繋がっていくように思われる。また、〔u〕で示された原像という概念から、あるべき生活の質という考察へと〔q〕〔w〕に展開し、政治や経済のあり方としてもあるべき姿=原像が求められることに繋がってくる。
 また、それぞれの章の関連や結びつきをイメージするにあたって、〔a〕のアブダクション(abduction。仮説的推論とか仮説形成、構想と訳される)のはたらきが促され、極めて創造的に考察を深めることになる。
 どの章も示唆に富んで興味深く揺さぶられる。
 おもしろい。ものすごく。

 個人的に感銘を受けたのは〔q〕で語られる、生活(家庭とかの狭い意味ではなく。生きる環境とか全人的な生の在り方やその場、の意)「質」ということ。
 ドイツ工作連盟の発足に関わった政治家テオドール・ホイスの言葉として、質とは何か、という問いに対する答え。

 「質とはなにか」とあらためて問うならば、「質とは」簡潔にいって「Das Anständige(ダス・アンシュテンディゲ)である」と答えます。この言葉は、私には、日本語ですと「礼節をわきまえているもの」、「誠実な礼節の態度」だと聞こえます。言いかえれば、ものや環境が人のあるべき姿と同じように礼節をわきまえている、ある礼節の態度だと聞こえてくるのです。この元の語の「anständig」という形容詞には、礼儀正しい、丁寧な、正直な、誠実な、上品な、礼節を知った、折り目正しい、といった意味があり、「人としての尊厳を守る過不足のない誠実な質の規範」とでも読んだらよいのでしょうか。(p.305~306)

 簡潔明瞭にして説得力のある言辞だなあ、と。
 そしてもちろん、この書籍全体にもこの「Das Anständige」が感じられ、礼節を尽くされた質の高さというのは、人の心を動かすことだ、なんていうふうにも思った。

 現実的離れしてる、理想主義過ぎる、っていう批判はあるかもしれない。
 けれども、理想のないものづくりがどれだけ無茶苦茶なことになるか、っていうことは前世紀にはっきりしたんじゃないだろうか。
 例えばなにかをデザインするときって、かたちを捉えきれずに曖昧に揺らいでしまうことがある。拠りどころがないと不安だし。そういうとき、この書籍に出てくる言葉、例えば「katamorph」とか「Trübe」とか、「礼節」のひと言で芯がすっと通る。そういうことが、社会全体を考える上でも必要なんじゃないか、ということ。
 理想的な社会はいきなりは実現しないにしても、もちっと芯の通った社会を目指したい、目指せるはず。と、思いますのです。

 なかなか分厚い書籍だし、価格もそんなに安くはないので手に取りづらいかもしれないけど、わかりやすいし素敵な本なので、図書館を利用したりして読んでみられることをお薦めします。


武蔵野美術大学出版局での紹介、書評






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「説教師カニバットと百人の危ない美女」笙野頼子 [書籍]

笙野頼子の著作を、もりもりざくざく読んでいる。
先般の「ドン・キホーテの「論争」」から引き続き、「だいにっほん、ろりりべしんでけ録」「徹底抗戦!文士の森」「金比羅」「萌神分魂譜」「海底八幡宮」「おはよう、水晶―おやすみ、水晶」「母の発達」「片付けない作家と西の天狗」「二百回忌」「S倉迷妄通信」「時ノアゲアシ取リ―笙野頼子窯変小説集」「一、二、三、死、今日を生きよう!成田参拝 」「てんたまおや知らズどっぺるげんげる」「硝子生命論」「幽界森娘異聞」「渋谷色浅川」「レストレス・ドリーム」て、だいたいこんな感じの順でただただ読んでおる。
ていうのは、作品単体の個々の世界から地続きで繋がって、より大きく広く深い笙野ワールドみたいなんが在って、その全体像を把握しないとよくわかんないところもあるように思えて、例えば「純文学論争」とか踏まえたほうがわかりよい、とか、とにかく笙野世界を概観すべきように思えて、がばがば読んでみてるのだった。
うん。わかったところも、わかんないところもあるけど、なんかこう、頭が耕される感じ。なんつーかな。ぼんやりとしていたことが明らかになっていくような。
世界認識が変わる。即ち、世界が変わる。ぬ。危険なことだなー。

でもって、全体像の概観把握から再び個々の作品へ戻ってみようと思う訳です。
というわけで「説教師カニバットと百人の危ない美女」。

初読で戸惑ったのは、とにかく文章が読みづらいというか、妙にぎこちない感じ。木目に逆らってカンナをかけてささくれだらけになってるような、ざらざらちくちくした触覚を思わせるような。語り下手な人の内輪ウケなつまんない話を聞いてるみたいな。読んでるとひっかかりまくってイラっと癇に障る。
ところが、その質感とか拙さ感(拙さではなく、拙さ感。わざとやってる)が妙な迫力をもって力強い運動をなしてる。訥々とした語りに引き込まれる感じというか。慣れてきてリズムを掴めるとぶっとびのドライヴ感でイマジネーション炸裂。
ともかく、むちゃくちゃなお話をぶんぶん振り回して読む側にどかんと投げつけてくるような、どえらい迫力なのです。ゴリラがうんこ投げてくるみたいな、っていったらどんな比喩だそれは(笑)。

そのお話というのが、主人公の八百木千本という作家が、巣鴨こばと会なる結婚願望炸裂しまくりの女性たちに執拗に絡まれまくるていうもの。
この巣鴨こばと会の描写がもう、物凄くて。たぶん、20代後半〜の年齢で独身の人はたいてい言われた経験があるだろうと思うけど、「結婚しないの?」ていうあの例のヤツ、ねばねばーっと迫ってくるような、しかもピュア善意っていうのが始末に悪い例のアレが横滑りして、「(いいかげんイイ歳なのだから)結婚しろ」「結婚できないなんて人格に問題がある」「結婚したがらないなんて無責任でワガママ」とか訳わかんない人格攻撃してきたり、加えて女に対しては「子ども生め」「夫と舅姑に尽くしまくれ」とか「良妻賢母っ!」「貞淑っ!」「婦徳っ!(知らんかったわそんな言葉)」とかが付け加えられて100万倍くらいに増幅され、それがゴリラのうんこ投げの如く八百木千本先生の小市民で平穏な生活にたたきつけられる訳です。

実際そういうねばねば善意に悩まされてる人には読むのがつらい描写なのかというとそうではなく、逆に粘っこい態度をかなり風刺して描かれてるので、なんて気色悪い連中だー、て笑えます。ていうか凄いよ。ホラーだよ。

でもって、八百木千本先生はたいへんにブスで、そのブス描写もまた凄いんだけども。
普通、ブスを自称する人に出会ったら大抵は「そんなことないよー」て言うことになってて、ブスではないと認めてあげようとする態度をとることになってると思うんだけど、そーいう態度も、例えば(黒人差別の文脈において)黒人に対して「そんなことないよー、白いとこもあるじゃん」て言ってるような偽善と化してしまうほど迫力のブス描写。
単に容貌の問題ではない、ブスとは何者か、っていうことを微に入り細を穿ち執拗に描写されるさまを経ると、逆にブスを神々しく褒め称えたくなってくる。
もちろん巣鴨こばと会はブスを許さないので、その攻防がまた凄まじく、さらに攻防の過程においてさらにブスが忌み嫌われる構造がめきめきばりばり鮮明になってく。
ていうことなのかな。

で、そうやってブスな八百木千本先生の奮闘ぶりを応援しつつ巣鴨こばと会の女性たちをせせら笑いながら読んでると、最後にべしっとひっぱたかれる。
ほの悲しいと言えなくもないけど、女って悲しいわね的演歌な風情には絶対拠らず、ひたすら馬鹿馬鹿しくくだらなく苛立たしく悲しい。

それはつまり。

最悪のこばと会よりも凶悪なもの、それはごく普通の善良な男性。(p.250)

このことなのだよな。








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「あらゆる場所に花束が…」中原昌也 [書籍]

読んでて不快。きたならしくってくだらなくって生理的嫌悪な感じで不快。
激しい憎悪が充満していて、戸惑ってしまう。なんでそんなに憎んでんの。

ただこれ、読んでると妙にすがすがしく、不快が突き抜けて裏返ってこの上なく清らかになる感じ。
不快が快に変じるんじゃなくって、不快感そのものが清らかにすがすがしい。
すごくヘンな感じ。

嫌気性生物、みたいなことをイメージした。メタンとか硫化ガスとか臭くて有毒の気体を呼吸して生きてて、酸素に触れると死ぬ。そもそも46億年前とか地球に生命があらわれた頃にはそういう生きものの方がメジャーだったらしいんだけど、そこに葉緑素をもって酸素を生成する生物があらわれ、酸素は嫌気性呼吸する生物にとっては猛毒で、あっちゅーまに駆逐されてったらしい。
酸素の悪意。良きものがふるう無邪気な暴力みたいなものがあって、そういうものにものすごく敏感な生きもの。な、イメージ。

Amazonでの新潮文庫版のレビューで「 嫌いじゃない」って書いてたmomingoさんていう人の感想にまったく同意。
単行本版の「宇宙的憎悪」(dokuitigoさん)ていうレビューにも得心。ふーん。

表紙の絵もこの作家が描いてるそうなんだが、この絵にも憎悪がたぎってる。
巧いとか審美的に優れるとかじゃないんだけど、ぎたぎたな嫌らしさとか観ていてすんごい不快。ってことは、まあそういう不快さが表現されてる絵だっていうことなんだろうけど。
フランシス・ベーコンみたいな感じがするけど、影響うけてんのかな。

しかし、憎悪っていったい何だろうな、と思ったりした。
ときどき、皿洗いながら「くだらねえ」「バカじゃねえの」「死ね」とかぶつぶつ呟いたりしてしまう(最近はあまり言わなくなったけど)、それっていったいどこから涌いてくるんだろう。






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「好き好き大好き超愛してる。」舞城王太郎 [書籍]

舞城王太郎って、王城舞太郎とどっちだっけか、って何故か必ずわかんなくなるのだった。笑。

この感じは、ラノベ感を醸し出してるのかなあ。軽くて平易でつるつるすいすい読みやすーい、噛まないで飲み込めちゃう感じの文章。そういうのは意図的にかましてるらしくてやり過ぎないようにセーブされてるっぽい。でも会話のとことかちっと痒い。しかしそれも狙ってるくさい。

セカチュー的恋愛感動モノに対するアンチテーゼ、っていう評をどっかで見かけて、そっかなるほどーと思った。そうすっとタイトルからしてかましてる訳だ。
意図的にかましたイタめ痒めのラノベ文体で、恋愛という気持ちの為すところを大真面目に書かれる仕掛け。なのかな。
誰かを恋しいと思う気持ちについて、その気持ちがどういう性質のものなのかどこから現れるのか、とか、相手の為を思うことは自分の為だったりすること、とか、相手の為につらくて悲しくて苦しい思いをするのにそのことを幸せに感じたりする、とか。

なので、胸にきゅーんてクる。
なんか仕掛けが先行し過ぎてる気もしなくもないし、もっと落ち着いた文体でやってくれてもいいと思ったけど、いい意味でナメてかかれる可愛さというか取るに足りなさみたいなものがキいてくるにはこの文体でいいのかもしんない。


「みんな元気。」ていうのも読んだ。
擬音語擬態語とか会話文のセンスがいかがなものか、と思ったけど、許せる。
後半、主人公が杉山家に訪れたくだり、自分の将来の選択肢が重なりまくって認識するところが、すんごいおもしろい。
ちょっとジョナサン・キャロルみたいな感じもした。




 


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「色の彩時記」朝日新聞社 [書籍]

色の彩時記.jpgお鈴ちゃんとこの記事、「似合う色のみつけ方。。」が興味深くって、そういやコレコレ、って学生時代に入手した書籍を引っ張り出してみた。わたしはとても(書籍に関しては特に)物持ちがよいのだ。モノに執着しない性格になりたいと思ったりもしたけどもう諦めた。

タイトルは誤植に非ず。歳時記の歳の字を彩に洒落てみたらしい。つーても歳時記って何か知らんかったのでその洒落っぷりをまるで解さなかった訳なんだが。
’83年3月に初版、入手した版は’92年10月で16刷。ムック本てあんまり重版される印象ないんだけど、なんか凄いんじゃね?

副題は “目で遊ぶ日本の色”。
季節につれてうつり変わる日本の色づかい、詩歌文学に表される色のイメージ、科学的に分析される色彩学の一端など、日本的な色彩感覚に多様な切り口から迫り、広汎な資料がまとめられてる。

わたしの目当ては日本の伝統色として、色の名前が色相ごとに列記されてる頁でした。色の名前って実にイマジネーション豊かで、名前が連ねられてるだけで萌え萌えなのです。
蘇芳(すおう)とか鴇色(ときいろ)とか鶸色(ひわいろ)、浅葱(あさぎ)、月草(つきくさ)なんて言葉の響きもイイ。黄櫨染(こうろぜん)なんて高貴なのもいいし、海松茶(みるちゃ)、路考茶(ろこうちゃ)なんていう渋いのもイイ。なかなかパッとイメージできなかったりするけど(笑)。
カタカナ表記が玉に瑕なんだけど、洋名も併記されててこれまたイイ。タンジェリンとかバーント・シェンナ、カナリヤイエロー、マラカイト・グリーン、ブルー・セレスト…、それぞれにその色が用いられてきた文化や歴史が感じられて趣き深いのです。カーディナルなんていうのは枢機卿が身につける高貴な色ですな。

これだけ色の名前があるっていうのは、それだけの色数を識別する視覚能力があり、使い分ける文化があるってことなんだけど、とにかく色彩から読み取るイメージや意味や印象がそれだけ豊富だってことだろうと思う。
単なる光の波長の長短に留まらず、情緒的にはたらきかけられるところが実に大きい。

書籍の冒頭には色を主題に書かれた谷川俊太郎の詩「色の息遣い」が掲載されてる。単に色彩から感じられるイメージにとどまらず、色の思想みたいなものになってて興味深い。
わたしが好きなのは “青” かな。青色が空間的な広がりを持ちつつ、透明に遠景にひいてゆく儚さが印象的。(引用して紹介したいのはヤマヤマなれど、詩歌というのは一部引用では意味が為さなかったりして引用しづらいし、全文引用となると著作権的に気がひける。)

今となってはちょっと入手しづらいけど、良書です。



ところで、似合う色。ちょろっとググったら、パーソナルカラーとかなんとか診断とかぞろぞろーっと調べあたって、正直ヒいた。あなたの色はコレ、って、なんか占いみたいな印象。
そもそもが色彩論だって形態論とセットみたいなとこもあって、色彩のみで語れることって実は少ないと思う。まして着るものとなると、色だけじゃなくって生地の素材とか質感、服のシルエットで随分イメージ変わるもんだからねえ。
つか、似合わなそうな色でも果敢に挑んで着こなしてやるぜ! ていうのがファッションじゃないかと思ったりもする(笑)。
もちろん、髪や目や肌、身体固有色とのマッチングで、“似合いやすい色”はあるだろうから、そういうのをまるっきり無視ってんじゃないけどね。そういう色を活かして“着たい色”を着ちゃえばいいんだろうし、たぶんその為にカラー診断があるんだろうな。






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「かがやく日本語の悪態」川崎洋 [書籍]

なんつってもタイトルが秀逸。かがやくのだぜ、悪態が。ステキだ。
だいたいが、悪態、って単語からしてウキウキワクワク、キラーンて漫画みたいに目が輝いてしまいますな。(そうか?)
悪態、罵倒、罵詈雑言の類いって大好き。

至極真面目に、日本語表現の多様性や可能性を追求する意図で歌舞伎や落語、文学や方言における様々な悪態を集めてある。なるほどねーって蘊蓄本的なお楽しみ。
卑猥な語や差別語は避けてあって、なので、わりと穏当な印象。たぶん著者の言語センスのあらわれなんだろうけど、性とか差別とかの構造的背景を前提/後ろ盾にした言い回しじゃなくって、あくまでも対等の立場で罵り合う表現に注目してると思う。
勝負は己の知性とセンスのみ、権力や暴力を恃むのは格好悪いぜ。的な。

「悪態採録控」っていう本も出てて、これは上述「かがやく…」の資料版みたいな感じ。
落語の活き活きした語り口とか、歌舞伎の台詞なんかは、こーいうのすらすらーっと啖呵きれたら気持ちいいだろうなー的な、的確な表現力に感服。わたしが好きなのは助六の悪態、「鼻の穴ぃ屋形船蹴込むぞ」ってやつ。無茶苦茶でよいわー(笑)。
文学の例では漱石の「坊ちゃん」とか井上ひさしの「吉里吉里人」に随分紙幅を割いてる。「吉里吉里人」すげえ。
川崎洋は方言にも造詣の深い方言コレクターなので方言の悪態も幅広く採録。


ところで、悪態とか罵倒の類いとなると、わたしとしては佐藤亜紀さまの著作を外せない。
例えば、「でも私は幽霊が怖い」所収の“一九九五年一月の日記”、原発を貶すくだり、218頁。

 こんな馬鹿げたことを思い付いた奴の顔が見たい。人類の恥曝しめ。アルファ・ケンタウリの住人に知れたら何と言って後ろ指をさされることか。あいつらわざわざ核分裂のエネルギーを使ってさ、それでお湯沸かしてさ、湯気で輪っか回して電気起して、で、やっと使ってるんだぜ。ばっかじゃねえの。
 ああ、恥ずかしい。コズミックな恥曝しである。

ボッコボコだ(喜)。
他にも同書籍所収“ストーカーを殴り殺そう!”なんか腐す相手が相手だけにぎたんぎたんのメッコメコ(狂喜)。
amazonか読書メーターか忘れたけど、“スマートに鈍器を振り回せる人”と評した方が居て、その形容がぴったりのドハマり、クールなボコりっぷりがステキ過ぎ。




   


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「大奥」、追記 [書籍]

先日の「大奥」書評記事のアクセスが急激に増えて、うわなんじゃーてビビってしまったのだけど、どうやらはてな界隈でブックマークやコメントをいただいていたらしい。

「大奥」よしながふみ:キワモノ偏愛記 増補版:So-net blog 「大奥」よしながふみ:キワモノ偏愛記 増補版:So-net blog

びっくりしたけど素直に嬉しいや。はてなのサービスって、おもしろいねえ。
で、ブックマークを下さった方が他にどんな記事をブックマークしたり、ご自身でどんな記事を書いたりなさってるか興味深くってあれこれ辿って、これまたおもしろかった。

んで、やっぱりわたしとしては、ジェンダーとかフェミニズムとか、男女の差異についての項目に興味深く注目がいってしまう訳なのだった。

あれこれ人さまのご意見を拝読していて、そういや、「大奥」もそうなんだけど、実をいうとわたしはよしながふみのジェンダー観というか男女観がしっくりこないとこがあるんだよなー、ていうことについて、もやっとしてたことがちょっと明らかになったように思う。

それっていうのは男女の差異をジェンダー(社会的性差)に求め過ぎじゃないかなー、ていうこと。
「生殖機能を別にすれば、男女に差はない」吉宗がよしながふみのスタンスなのだとしたら、男女の差異はほぼジェンダーとイコール、と捉えておられる訳なんだろうか、と。

そりゃまあジェンダーは影響としてデカいとは思うんだけど、その割り切り方には些かひっかかるものがあって。

対談集「あのひととここだけのおしゃべり」(太田出版)で、初潮を迎えることを非常に象徴的に描かれた表現について疑問に思ったこと、生理を淡々と受けとめ得ることなどを語っていて、うーんなんかそれってえらいこと身体性が稀薄なんじゃなかろうかのー、でもってこの人BL作家で男性同士の性愛を描いてたりするんだよなー、それって逆に業が深い気もしますなー、などと思ったことも思い出した。

身体性が稀薄、つまり自ら女性の体を持つってことに意識が稀薄なような印象。
だからこそシャープに論考に切り込んでいけるようなところがあるのかもしれないんだけど。

お話づくりとか漫画表現の技巧的な達者さについては文句なく巧くって、漫画作家としてどうこうってんじゃないけど、思想としては今ひとつ得心がいかなかったりするかな、てこと。


個人的には、男女の差異を隔てる上で身体の違い、特に男女の違いを決定づける生殖機能が女性の自意識に影響するところが大きいのじゃないかと思っていて、ここんとこずっと考え込んだりしてる訳なんだが。
つまり生殖って、異生物を体内に受容するわけで、個体の同一性を保持する免疫機能と真っ向相反する。
“自分じゃないもの”を排除する免疫機能と、受容して育てる生殖機能を併せ持つ、矛盾する身体。

よしながふみの描写にはその矛盾を含んだ身体性が乏しいように思えて。
例えば、「大奥」二巻で家光が強姦される→孕む→出産して子の誕生を喜ぶ、な描写のあっさり具合。
女性が強姦に恐怖するのは暴力ってこともそうなんだけど、“自分じゃないもの”に浸食される、自分が自分でなくなってしまうような恐怖があって、そこにはまさに矛盾する身体の葛藤があると思うんだけども、ていうか女性の体を持つわたしはそのように感じている訳なんだけど。

だから、家光の母お彩にしても家光にしても、さらには綱吉にしても、子に対する母の気持ちに矛盾がなさ過ぎるように感じる。
我が子とはいえ、強引に浸食してきた“自分じゃないもの”を、そんなにあっさり受け容れられるもんなのかなー、と。

とはいえ、よしながふみの試みに意義や説得力がないってことでもなくって、ジェンダーっていう切り口のみでもかなり切り込んでるんじゃないかと思う。
けども、んーまだまだこんなもんじゃないけどねえ、なんていうふうにも思うのだった。






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