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「それでもボクはやってない」 [映画]

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いったい、どう受けとめたらいいのかわからない。
ものすごくヘンなものを観てしまった感じ。

「アトミック・カフェ」を思い出した。
「アトミック…」もそうなのだけれど、大変な熱意と使命感にかられてつくられたのだろうと思う。
目を背けてしまいそうな不幸とか悲惨とか災厄の中心に、恐ろしいほど精確に迫っている。

その熱意と使命感は尊敬に値するとは思うけれど。映画の出来としては非常にクオリティの高いものだろうけれど。
私は、嫌だ。

つくづく、自分は弱い人間だと思う。
問題意識をもって立ち上がるべきなのかもしれない。
でも、打ちのめされる人も居ると思う。

こういう表現は、環境問題とか紛争問題とか飢餓とか核兵器が提議される場合に見かけられる。
「状況はこんなに危機的なのです!」
「!」の鼻息の荒さ。

「夕凪の街、桜の国」の原作者、こうの史代は著書のあとがきで、ヒロシマを描くことに抵抗があったことを打ち明けている。
広島出身の著者は、平和資料館や原爆の資料映像に何度か倒れかけ、原爆と聞けば逃げ回っていたそうだ。
それって、平和教育として成功なのかな?
問題を提議することは、恐怖を植え付けることとは違うと思う。

恐怖は人を萎縮させ、逃避に走らせる。
「それでもボクは…」を観て、男性は「逃げるしかない」と思うだろう。
それを責める気にはなれない。

「Shall we ダンス?」みたいに、人間の可愛げや滑稽さをあたたかい眼差しで描き出せる人なら、もう一歩ふみ留まってほしかった。
苦い現実に立ち向かうために、ほんの少しの希望を示してほしかった。


もうひとつ。
「アトミック…」と共通する感覚がある。
罪悪が人間性を伴わない、気味の悪い乖離感だ。

痴漢という極めて人間的な犯罪が、オートメーションの犯罪処理システムに処理されてゆく。
感情も言動も無視されてベルトコンベアにのせられ、有罪とか無罪とかの処理ボックスに放り込まれる。
冤罪の恐ろしさももちろんだけれど。
人間性を無視される理不尽と気味悪さがひどくリアルに迫ってくる。

ボタンひとつ押すだけで何万人をも殺す核兵器は、加害者から罪悪感を奪う。
平坦な文章が連ねられた書類の山には、被害者も加害者も存在せず、罪悪だけがある。
そんなものを裁いて、どうなるんだろう。

痴漢もセクハラもDVもストーカーも児童虐待も。
本当は警察や法律なんかはおよびでないはずなのだ。
本当は、おせっかいなおばちゃんや、口うるさいじいちゃんや、おっかない頑固オヤジにがみがみ怒られて、泣きながら「もうしません」、って謝るものなんじゃないかな。
それこそ、人間なんじゃないだろうか。

例えば、ラストシーンにほんの少し付け足してみたらどうだろう。
満員電車の中、扉に挟まれた上着を引っ張る主人公に、誰かが話しかける。
「どうしたの?」
「次の駅で扉が開くから、無理に引っ張らない方がいいよ」
やめてください、と声をあげた女の子に、誰かが声をかける。
「大丈夫?」
「痴漢なんて酷いことするな、やめなさい」
「誰か席を譲ってあげて」
「私が見張ってますよ」

事件は起きない。
解決方法は、ある。
必ずある、と信じさせてほしい。


「アトミック…」も「それでもボクは…」も、残酷過ぎる。
それが現実なのだとしても。
あるいは、現実だからこそ。





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