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「接吻」ヒロイン京子について [映画]

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「接吻」公式サイト

坂口が犯罪者でなければ、それも、これほど残虐な殺人を犯していなければ、京子はちっとも「狂ってる」とは見做されないだろう。
むしろ、社会的に理解されづらい立場の人間に対して献身的な愛を注ぐ慈愛に満ちた女性として称賛されるかもしれない。

この場合の「狂ってる」とは「反社会的」と同義である。
「反社会的」という点を除いてしまえば、坂口も京子もしごく明晰である。
だとしたら、社会が狂っていて、坂口や京子はまともなのかもしれない、という反問が可能になる。
が、それは言ってはならないことだ。
その疑問をもたげることは重大な禁忌なのだ。

けれども、そのおそろしい疑問にとらわれてしまうことはないだろうか。
平穏な日常、安穏とした生活、平和な毎日に耐えきれなくなりそうな時はないだろうか。
狂うことを封じられているが故に、狂ってしまいたくはならないだろうか。

例えば、社会的に許されない相手にどうしようもなく、抗い難く惹かれてしまうなら。
それを狂気と呼ぶのなら。
乾ききらない瘡蓋をめくって傷跡を確かめるように、ある種の証明を得ようとしてしまわないだろうか。
即ち、自分が本当に生きているのか、確かめたくはならないだろうか。
そしてそのことを誇らしく思ってしまわないだろうか。

社会に属して生活を営むに際し、その社会に適応するために本能を抑制しなければならず、人間として厳重に自我を維持し続けなければならない、誰もが。
緩慢でありながらも確実に抑圧され、行き届いた管理と制御に本能の姿を矯められて見失いそうになってしまいそうな恐怖を覚えながらも。


京子。
小池栄子が演じた、狂える女。
ただ、恋に落ちる、それだけのことを狂気に至らしめた理由は、果たして京子に責があるといえるか。

わたしたちはあまりにも平穏で、だからこそ残酷な社会に属してはいまいか。
それを問うことは禁忌である。






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