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「この自由な世界で」 [映画]

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「この自由な世界で」公式サイト

どう考えてもアンジーは、考えなしでその場しのぎで言い訳ばっかりのダメ子なんだけど、映画の視点はそのダメっぷりを糾弾・断罪する訳ではなかった。
アンジーを描写する視線は冷徹で、安易な同情も非難も許さない。
観客は徹底的に傍観者の立場に止め置かれ、危なっかしく仕事に立ち向かう主人公を、ハラハラしながら観ているしかない。

アンジーの父ちゃんがいい。
画期的な解決策を携える訳でもなく、スーパーマンでもないのだけれど、彼が出てくるときだけ、ほっと息をつける。
娘を思って言う小言が娘の耳に届かないことを承知しながらも、諦めずに、ただ、寄り添ってくれる父親。

難しい局面を迎えるたび、或いは自ら難局を引き受けてしまうたびに、ギリギリの選択を迫られるアンジー。
そのたびに、彼女の立ち位置はズレていき、苦しい言い訳は彼女自身すら騙せなくなってくる。
やがて彼女は手痛い報復をうける。

彼女がしてきたゴマカシを思うと、報復の犯人側の心情に与することも可能なはずなのだが、この場面で圧倒的な違和感が迫ってくる。
搾取される移民たちの、その真の敵はアンジーではない。
痛々しい彼女の姿に恐怖を感じる強さと同じ強さで迫ってくる違和感。
真の敵は、姿を表すことはない。
そも、敵としての姿を持たないからこそ難儀な問題なのだ。

敢えて、搾取する雇い主側を糾弾するような安易な描写を避けている。
雇い主の向こう側に居る、元請けの会社や、商品を購入する消費者は、搾取している自覚などまったくない。
その自覚の無さを指摘しなければ、この問題提起はただの偽善で終わってしまっただろう。
アンジーの相手の見えない空回り具合、移民労働者たちの怒りのやるせなさは、自覚のない無邪気な加害者によるものだ。
そして、自覚なき加害者をつくりだす強力なシステム、そこに関わらざるを得ない私たち自身の姿が、否応無くリアルに迫ってくる。


アンジーと移民労働者たちの姿は、見えない問題の姿を鋳造する鋳型である。
観客は、その鋳型に意識を注ぎ、それぞれが抱える問題の姿を鋳造する。
雇われ人として、雇い主として、消費者として、それぞれの立場によって鋳造される色やかたちは微妙に違ってくるだろう。
立場の違いによる問題把握の温度差を超えて、普遍的に訴える仕組みを備えている。


スリリングな展開はサスペンスとしても良。





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