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「長江哀歌」 [映画]

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舞台は奉節、三峡ダム建設のため、水没することが決まっている長江沿いの街。

山水画を意識した画づくりだという。
青みがかった緑色が滲むような川面の風景、靄と霧のあわいに岸壁が黒々と覗くあたり、確かに。
全体に水の気配が漂う、湿度の高い画。

そういう、画づくりにこだわりを感じるものの。
どうにも馴染めないというか。なにかが厳然と隔たっている。
風景がすんなり体に入って来ない。

もっと鮮やかなはずだろう、と思うのだ。
緑はもっと匂うように息づいているはずだし、空は湿度をはらみつつも軽々と抜けていくだろうし、水は光を飲んで反射し、さざめくはずだろう。
灰色の現代都市も、埃っぽい瓦礫の山も、鈍く輪郭をにじませ、どこかエッジが甘い。
そこに訪れる人の姿も、色彩の鮮やかさを減じて黒過ぎる陰を負い、鈍く現実感を失っている。
どうしてこんなに鈍重なんだろう。
非現実的な描写を差し挟まなくっても、十分にそこは異世界だ。

街は既に、半ば水に飲まれているのかもしれない。
滅びの気配をまといながら暮らすということは、世界が色彩と鮮やかさを減じていくことなのかも。

そうだとしても。
街は半ば水没しているとしても、まだ呼吸しているはずなのに。
なんとはなしに、かすかな苛立ちのような、歯痒さのようなものを覚えた。
どうしてこんなに死んでるんだろう。


この画は、これでいいんだろうか。
山水画(≒水墨画)を意識したってことは、単に風景画の画風、技法としてってことなのかな。(たぶんそうなんだろうな)
彩度を落として発色をおさえ、輪郭をゆるめてにじんだ墨や水彩のような効果を狙った、とか。
だとすると、正直これは成功していると思えない。
彩度をおさえたのは古くって感度の鈍いフィルムみたいだと思ったし、にじみというよりピントが甘いように思えてしまった。
人物の陰影がやたらに黒いのは墨っぽいっちゃ墨っぽいけど、墨の色が墨に見えるような絵画表現は正直拙いと思う。
なんとなれば、水墨表現って、陰影表現でありながら色彩表現でもあり、むしろ鮮やかさを指向する表現技法だと思うんだよねえ。
水墨っぽく→うすぐらーく色みを押さえるっていうのはちょっと安易だと思う。

あと、メリハリが効いてない気もする。全体に鈍い。
重厚感とか質感ががっつり迫ってくる部分、エッジが立って冴え冴えしたような部分がどっかに欲しいっていうか。
そういう部分があってこそ、にじみやゆるみみたいな効果が際立ってくるような気がするし。

あ、じっとりした湿度はものすごく感じた。


それから、山水画からの連想で、文人画って印象が浮かんだ。

そもそも山水画というのは、単なる風景画ではなくって。
実際の風景に感じ入って描く写実表現というよりは、思想とか世界観を風景に仮託するようなところがある。
なにげない風景の絵なんだけど意味を読み解くと深淵だったり。
(もっと単純な例をあげれば鶴亀の絵が描いてあったら「めでたい」って意味、とか)
特に中国では文人の余技として発展した経緯もあって、そういうのを文人画っていう。

写実的な描写を用いた主観的表現。心象風景。世界の絵解き。
(そりゃ主観的でない表現なんてないし、そも写実とはなんぞやとか客観的表現とは、とか言いだしたらえらいことになっちゃうんだけど(笑))

ジャンクーっていう作家の心象が、長江や奉節の街の風景に仮託されてる。
そういう意味で、この映画はジャンクーの山水画なんだろうと思う。

で、これは、あんまり自信がないんだけど。
ジャンクーの心象は、実際の風景の画力、画格と、はたして釣り合うものなのか。
ジャンクー、負けてんじゃないかなー、と思ってしまったんだけど、どうなのかな。
奉節の街、風景が、矮小化されてるように見えてしまった。

繰り返すけど、自信ない(笑)
死んだように鈍い描写が正しいのかもしれない。
ジャンクーの長江、奉節の街なんだから、それでいいのかも。



(追記)
映像のもっさりもったりした鈍重さは、どうもDVDの出来があんまりよくない可能性もあるらしいです。
映画館で観た同作家の「四川のうた」はえらいこと冴えてた。




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