「長江にいきる 秉愛の物語」 [映画]
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ダムが建設されるため、移住を迫られる秉愛さん一家のドキュメンタリー。
頑に移住を拒む秉愛さんの気持ちは正直、よくわからない。
もちろん、長く暮らした土地を離れるのは嫌だろうけれど、移住計画は既に着々と進められている。
そんな中で敢えて拒否する姿勢には、なにか理由が(例えば、行動をもって社会に訴えたい大義、とか)があるんだろうか、と思う。
そういった“大義”みたいな訴えがなされるものかと思いつつ、観つづけるけれど、そういうことではない。説明もない。
秉愛さんを否定も肯定もせず、ただ淡々と追っている感じ。
秉愛さんを理解しようとするのを諦めはじめた中盤あたりから、腑に落ち始めた。
どうやら、わたしは理解できるはずだという前提で観ていた訳で、当たり前だけどそんな訳はないのだった。
村の幹部は「決まったことなんだから、仕方がないだろ」と、移住を迫る。
「戸籍を抹消する」と脅されもするけれど、秉愛さんは怯まない。
その頑迷さは、ただ頑迷なのであって、理由はない。
「○○だからイヤだ」じゃなくて、ただただ「イヤだ」。
駄々っ子みたいだけれど、その姿を見つづけるうちに、ふと思う。
本当に「仕方がない」ことなんだろうか?
長年暮らした土地を離れなくてはならない、その感慨は理屈で収まるものではないのだろう。
理屈に与した途端にその気持ちは失われるのだ、と思った。
たぶん、水没する事情は変わらないし、どんなに意固地を貫いても秉愛さんは移住を余儀なくされる。
だからといって、秉愛さんがその事情を理解しなければならないわけではないし、ましてや納得しなければならないわけではない。
で、観ているわたしは、秉愛さんのことを理解しなければならないわけではない。
理解できないままで、そのまま受け容れることを促される。そういう、視線。
監督の馮艶さんの視線は、秉愛さんにぴったりと沿って伴走している。
先導して結論に導くでもなく、マクロにとらえて位置づけるでもなく、秉愛さんの気持ちを代弁しようとするでもない。
ただ、傍に居て、観ている。
それだけのことなのだけれど、確実に、秉愛さんはその視線に力づけられ、育まれている。
伴走する視線によって描かれたこの映画は、徹底的に秉愛さん個人のお話。
そして、徹底して個人を描くことによって、社会の有様、三峡地区の姿が鮮やかに立ち表れてくるのだと思った。
2009-04-17 15:04
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