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「SHOAH」 [映画]

「SHOAH」というのはヘブライ語で殲滅とか絶滅とかいう意味であるらしい。
第二次世界大戦中、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺のサバイバー、加害者、目撃者など同時代人へのインタビュー集。

すげー長いの。DVD4枚組、503分。ごひゃくさんぷん。8時間23分。さすがに一気観は無理。3日かけて観た。
内容も内容だけにおもしろおかしく愉快に観られるものではないし、覚悟を固めて、夫にも数日の間憂鬱になるかも知らんけどコレのせいだから、とか言いおいてから観た。

で、端的に言っちゃうと、すっごくヘンなものを観た、って感じ。
さぞかし陰鬱に重暗く悲惨なのであろう、と思ってたんだけど、そりゃもう話されている内容は悲惨極まりないし、実際陰鬱で重暗く悲惨なんだけど、観た印象としてはひたすら「?」な。
なに言ってんだろうこの人たち。って感じ。ものすごく異様な、ヘンな、理解できないものごとに直面させられる感じ。

ていうのが、今年の1月のことで、それからずーっとその、なんかヘンな感じが続いてる。


「夜と霧」も観たんだけど、「SHOAH」と併せて観たせいで、そのわかりやすさに違和感持っちゃったのかも。
「SHOAH」の異様さ、理解しづらさっていうのは、なんかコレわかっちゃったら人間として終わりなんじゃないか、わかるべきではないんじゃないか、ていう感じさえする。

だってさあ、なんぜんにんなんまんにんが殺された収容所のただ一人の生き残りの気持ち、とか、
遺体処理が滞りまくりすごい腐臭で、それでも命じられて遺体の腕掴んだら腐った腕の肉がずる剥けた話、とか、
これからガス室に送られる境遇の知人の髪を刈った床屋の談、とか、
遺体処理とかの仕事をさせられるためにガス室から免れた人が、自分が生きのびることに耐えられなくなり自らガス室に入って死のうとしたものの、これから殺されるっていう人たちに諭されて生き延びた、とか、
または、ゲットーの管理責任者だったドイツ人が、餓死者の遺体が道っぱたにごろごろしてるような劣悪な環境のゲットーのことを単なるユダヤ人自治区だった、と単純に信じてた、とか、

そんな話、受け容れ難いよ。
いちいち、なにそれ。なんだそれ。って、なる。
なにがあったのか詳細に語られても、それでも。わからない。なにそれ。

一方で、すごくよくわかりもする。
今現在だって、まるで問題のない社会じゃないから。
苛めとか差別とか虐待とかと同じことなんだろうな、って意味で、とてもよくわかる。


収容所や虐殺の映像や写真などはない。残酷な映像とかでがーんとクる、ってのはなかった。
むしろ、深い森の緑が印象的な、牧歌的な風景。
それは、収容所や処理場の跡地なんだけど、施設の痕跡は完璧に消し去られているので、単なる自然豊かな森の風景に見える。

あと、話を聞く相手の部屋とか職場とか、普段の生活の場面。
線路と鉄道からの車窓の眺めも印象的。
日本語字幕がなければ、「世界ふれあい街歩き」じゃないかと思っちゃうくらい、画ヅラに不穏なとこはないのね。

で、それがまた、ヘンさに拍車をかけるというか。
「ちい散歩」とか「世界の車窓から」で虐殺の様子が語られてるみたいな。

話をする人は、わりに淡々と普通の世間話をするみたいにも見えるし。
上述の、収容所のただひとりのサバイバーなんて、穏やかににこにこ微笑みながら話してた。
もちろん、なかには話すのがつらくって声を詰まらせたり、頑なに拒否したりする人も居るんだけども。
極力編集で切ったりせず、撮ったまんまらしいのね(だからこんな長さになってんだろうけど)。
なので、うまく話しあぐねて言葉を探す様子とか無言になってしまう場面とかも、まんまだらだら流れて、間延びして冗長だったりもして、で、そういう締まらない撮りっぱなし感が、すっごく日常の普段な感じがする。全然劇的じゃない。

そしてその感じが、間違いなく今現在とつながっている現実だ、っていう感覚につながって、怖くなる。戦慄する。
この異様な話をする人たちは実在していて、この異様な話は現実である、っていう感覚が、じわじわこっちの生活に染み込んでくるみたいに迫ってくる。
遠い昔の遠い余所の国のわたしに関係ない出来事なんじゃなくって、今現在の、現実の、わたしが住んでいる世界の出来事として感じられ、ただ、その異様さを認めがたくてひたすら困惑する。


ユダヤ人サバイバー、ドイツ人の施設管理者の話だけでなくって、それらの強制収容のさまを目撃した人や収容所施設の近隣に住まってた人とかのインタビューも結構採ってる。
これがまた、なんか、ヘンな感じが。

連れ去られたユダヤ人たちがまさか殺されてるなんて思わなかった、っていう。

収容所近隣の住民は、何が起こってたか知ってた、気が重くなった、なるべく考えないようにしてた、っていう。

列車にぎゅう詰めにされて運ばれるユダヤ人たちに、首をかっ切られるジェスチャーをしてみせる、なんていう話があって、それ確か映画「英国王給仕人に乾杯!」(だったと思う)に出てきて、すごい不気味な印象だった覚えがあるんだけど、その真意は、どこに連れてかれてどうなるかわからない・わかってないユダヤ人たちに、殺されちゃうんだよ、と教えてあげたんだ、親切だった、っていう。

強制収容とか大量虐殺とか、そんなのは間違っている、ユダヤ人たちが自主的に(イスラエルへ)行けばよかったのに、っていう。


別に、積極的にユダヤ人を嫌ってる感情を表したりはしないけど、なんかビミョーな印象だった。

知らなかった、気づかなかった、自分たちにはどうしようもできなかった、自分たちも占領された被害者だ。
質問の仕方にもよるんだろうけど、なんだか少なからず後ろめたそうでもあった。


で、たぶん、一番共感しやすいのはこの人たちなのかもしれない。
なにか問題があるときに、困難や苦痛を感じる被害当事者ではなく、加害側でもないとき、両者から距離を置いた、客観的で冷静な中立の立場でありたいと思ってしまう。
それは冷静でも何でもなく、単に、問題に巻き込まれたくない・ヒトゴトとして傍観したい、ていう無責任な態度なのかもしれないけど。


けど、逆に、誰に責任があるか、っていうのもわからない。
このフィルムを観てると、誰か(ヒトラーとかナチスとか)の強力な思惑で強引に為された、ってだけではない、なんだか主体の知れない不気味な世の中の動きがあったのかもしれない、とか思う。

もともとユダヤ人への嫌悪や差別感情が強い地域とか、ナチス台頭以前にも、ユダヤ人がつるし上げられたり(ポグロム)したらしくって、そういうミョーな雰囲気が支配的に蔓延してたような感覚は、今現在の日本の社会を鑑みて、なんかすごくよくわかる。気持ち悪いぐらい。

あいつら死ねばいいのに、とか、憎悪が渦巻いてるような。
または、そんなに激しく嫌悪していなくっても、どっか行けばいいのに、とか。
そしてそういう憎悪や嫌悪をダダ漏れにしてはばからないような。
あるいは、それが憎悪や嫌悪だと気づいてさえいないのかも。

で、「SHOAH」の場合、それがユダヤ人だったりしたのかな、とか。
ユダヤ人どっか行けばいいのに、って思ってた人々のひとりひとりは、苦しめとか死ねとか思ってた訳じゃなくって、ただ気軽に気楽に無責任に居なけりゃいいのにって思ってただけかもしれない。
ただ、それが“実現されちゃった”。

鉄道による大量輸送&機械化分業化工場化によって大量処理が可能になり、大量虐殺が“できちゃった”。
とかそういうことなのかな。ていう。
収容所の職員だったドイツ人へのインタビューでは、処理がおいつかない、みたいなことを言う場面があって、その処理というのは端的に殺すことなんだけども。その受け答えはまるきり納期に迫られる工場長、って感じだった。そんなどんどこ送られてきても困るんだよねー、みたいな。送る方はこっちに押しつけちゃえばいいだろうけどさ、処理能力ってもんがあんだからさー。的な。

そう思って観ると、やたらに鉄道の場面が差し挟まれてんのが不気味に印象に残る。



随分以前にテレビのニュースかなんかで見た。イスラエル人の若い女性が、パレスチナ人の自爆テロの被害にあって、泣きながら叫んでた。「アラブ人はどこか余所に行けばいいじゃない」

野良猫を嫌って追い払う人は、追い払われた猫が死ぬとは思ってない。どこかかわいがってくれる人の居る場所に行けばいいと思っている。

劣悪な労働条件に困る人に、嫌なら辞めればいいのに、という人。どっかもっと条件のいいとこに行けばいい。

自分ちから出たゴミはどっかに持っていって処分してもらいたいけど、自分ちの近くにゴミ処理場ができるのは嫌だ。


ホロコーストとは関係ないように見えることも挙げたかも。

ただ、「どっか行けばいいのに」って思うときの「どっか」ってどこなのか。
ひょっとして、それがゲットーだったり強制収容所だったりガス室だったりしないか。

とかさ。


いろいろ思うことがあって、まとまらないまま書いたんでだらだら長いけど。
今、思うところとして。








タグ:映画 SHOAH
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