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『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(大泉版) [TV]


東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

  • 出版社/メーカー: アミューズソフトエンタテインメント
  • メディア: DVD



ボンクラ息子とデキた母親、って組み合わせの話は、或る種のノロけ話だろう。
息子に対する態度は母のそれではなく、女じゃねえのか、と思えてならない。
ヘタレ男に尽くす女の典型的な図。
生臭い言い方をすれば、この親子はデキている。

母という生きものは本来、期間限定もの。
しかも、自分の子ども以外に対してはものすごーく心が狭い。
犬猫の母をみればわかるが、ちょっと近づいただけで威嚇される。
ヒトの母も同様で、常にピリピリと殺気立っていて、なんかあるたんびに威嚇。ブシャー。
子どもが拙いことをやらかした際にも厳しく警告。
でもそれが、母という本能なんだと思います。

で、子が成長して母期間が終わると、今度は子を追い出します。
ホッキョクグマの母は2年の子育ての間、ひとときも子から離れないというのに、ある瞬間、突如として別人ならぬ別熊になって子を威嚇し、追い払ってしまいます。母親終了。
このとき肝要な点は、母はけっして「子のためを思って」とか「涙ながらに」「心を鬼にして」みたいな、じとじとした情とは無縁であるところ。次の子どもを生むためには、さっさと子グマを追い払わなくてはならないんですよ。
いや、クマの場合なんだけどね。

本来は、ヒトも生物として、本能としての母性であるならば、いいかげん育った子ども相手に母親なんてやってらんないはずです。
ところが、社会的に成立させられた「母」という役割の強力さはハンパではない。
社会的の「母」という役割を負っていた女は、その役割に執着してしまう場合があるんじゃないのか。
先日読んだ「母が重くてたまらない」なんていう本は、母親という役割にしがみつき、いつまでも子を必要とするグロテスクな母が満載。

異性であるオスの子に対する場合、母からメスにシフト。…してしまったり、すんのかな。
んー、やっぱどう見ても、男に尽くす女に見えるぜ。

いいんだけどさ、ドラマだし。
洋ちゃんの軽々とした雰囲気と、田中裕子の飄々とした芝居がハマってて、アリかもしれないな、と思わせられた。実際に身近に居たりしたら気持ち悪いかもしんないけど、このドラマの中ではそんなに気持ち悪くなかった。

恋愛のかたちもさまざまで、イタい恋やグロい恋があれば、微笑ましい恋も崇高な恋もある。
ましてや、人と人との関係は、どんな関係だってあり得る。
近親な恋愛関係も、気持ち悪いばっかりじゃないかもしんない。

あー、ちなみに速水もこみちと倍賞美津子ペアは気持ち悪くて見てらんなかった。
オダギリジョーと樹木希林ペアは未見だけどどうなんだろ。

こういう母恋男に惚れてしまったら、母親が先立つのをひたすら待つしかないような気がします。
そう考えると、ラストシーンの広末涼子がすんげえ怖い女に見えておもしろい。


それにしてもだよ。
個人の話としては、まあいいんじゃないすか、と思うけど、こんなに何度も何度もメディア化されるのは常軌を逸してると思うぞ。
それに、リリー・フランキーだよ?!
彼の著作とか作品の傾向を考えると、「東京タワー…」は、ネタじゃないのか? と思えてならないんだが、どうなんだろ。
こんなにマジに受け取られると思ってなかったんじゃないのかなあ。
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