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「カルラのリスト」 [映画]



正義の女神は、正邪の偏りをはかる天秤と、執行力を意味する剣を持ち、目隠しをした姿で表される。
目隠しは、一般庶民も権力者も国家も、すべて法の下に平等に処することを意味する。金持ちだろうが偉かろうが国が異なろうが、等しく法が適用されなくてはならない。
天秤、というところがキモだと思う。天秤は釣り合いを確かめる道具。ものごとが偏っていないか。バランスが正しいか。
つまり、正義とは絶対ではなく、相対なのだ。

カルラ・デル・ポンテは、この正義の女神を具現する人物像としてあろうとしているように見える。
このドキュメンタリーで描かれる姿は、カルラ個人ではない。プライベートはいっさい語られない。
国際連合の組織、旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷(ICTY)の検事として、すべて公人としてのパフォーマンスであるように思えた。
この映画媒体そのものもカルラの戦略と言える。
もっと言えば、国連、ICTY、及び国際刑事裁判所(ICC)の姿勢を全面に打ち出したプロパガンダである。
公正という点において、慎重に受け取る必要があるかもしれない。

カルラは関係各国の政府に、戦犯の行方の捜査、情報の提供を求める。すべての国が協力的とは言えない中、強制力はなく、必然的にそれは政治の仕事になる。交渉に継ぐ交渉、しかもICTYはそれほど強い外交カードを持っている訳ではない。執行力の弱さは致命的だ。
困難な状況だが、カルラは粘り強く交渉し、各国政府に協力させるよう追いつめて行く。

一方、スレブレニツァの虐殺で夫や子どもを殺された女性たちの姿に転じる。
なぜ、家族を殺した人間が捕らえられないのか。
たとえ戦犯が捕らえられたとしても、殺された家族は帰って来ない。けれど、かといって忘れることはできない。

被害者の感情は、単なる復讐心ととらえるべきではない。
理不尽に対する、単純にして切実な怒り。“正義ではないものごと”に対する怒りだ。
そしてこの怒りという感情は、実に堪え難いものではないだろうか。

さらには、殺された家族とその犯人を、政治の具にされてしまう。
殺された理不尽、さらにそのことを無視される理不尽が重なる。
尽力するカルラの姿でさえ、被害者にとっては歯がゆい。


正義とはなにか。
この問いが、安易に解を得られる問いだと考えてしまうと、非常に危険なことになる。
数多の抑圧も迫害も蹂躙も虐殺も、正義の名の下に行われた。
これが正義ですよ、と取り出してみせる者が現れたら、それはファシストか詐欺師か、両方だ。

ただ、これは言えるはずだ。

“正義ではないものごと”が、まかりとおってはならない。





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