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「星影のワルツ」 [映画]

hoshikage02.gifオープニングタイトルの、水面の波立つ様が美しい。繊細に加減された光線の写真がすごくきれいで惹き込まれる。
主人公の祖父の作と思しき数点の絵画が丁寧に映し出され、拙いながらも熱心な筆致に好感を持った。
同時に、微かに違和感を感じる。

淡々と静かな描写で、帰郷した青年と祖父の会話や、幼なじみとのやりとりが綴られる。
本当に静かでなにげない。そこに、冒頭に感じた違和感がずっとつきまとう。
微かだけれど、確実に。

青年は写真の仕事をしているからか、日常的にカメラを手にし、なにげなくシャッターをきる。
庭先を撮り、風景を撮り、幼なじみを撮り、祖父を撮る。

シャッター音のたびに閃く違和感は、例えば旅先でなにげなく写真をとろうとするときにかすめる類いと同質のものだ。
“May I take your picture?”と尋ねるとき、なんともいえぬ疾しさを覚えたりしないだろうか。
相手に時間をとらせてしまうことへの申し訳なさとか、そういう単純なことでなしに。
むしろ相手が愛想良く協力してくれたりすると、余計にその疾しさは痛みを持つかもしれない。
相手に魅力を感じ、その姿を形に残したいと思う、そのこと自体にはなんら疾しさはないはずなのに。
敬意をもって被写体の肖像を映し出そうとすればするほど、相手との距離が強く意識される。

映すとか描くとか、表すっていうのは、つまりそういうことだ。
立ち表れる距離は、表現の客観性を担保する。
相手に近過ぎると、撮れない。映し出せない。表せない。
そして、いかに誠実で真摯であっても、確実に上から目線である。
それらの都合はすべて表現を欲求した者の一方的な都合であって、欲求された者には関係ない。
なにかを表そうとしたなら、その瞬間、表現者は見知らぬ旅人ほどに遠くなる。

だから、祖父は一喝する。
話をしている最中にもレンズを向ける青年に。
勝手に遠くなるな、と。
もしくは、レンズに捩じ伏せられまいと。


冒頭で感じた違和感の正体は、表現者の射程距離であり、射程を計る視線である。
いかにも素人の域を出ない祖父の絵画を繊細に映し出す、その視線には、誠実な侮りともいうべき表現者の冷徹が宿っていたと思う。
孫としての親愛の情と、それに由来する疾しさが漂っていて、それがまた魅力になる。
もちろん、主人公=監督はそのことに気づいているだろう。

謙虚だけれど、鼻持ちならない映画だと思う。





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