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「スローターハウス5」 [映画]

slaughterhouse-five-dvd.jpg
これは北米版かな?DVDのパッケージ。

以前から観たいと思ってたんだけど、なかなか見つけらんなかった。どうやら最近になってDVD化されたらしい、ツタヤの新作棚に発見。ブラヴォー。

で、びっくり。これはびっくり。
すごくよくできてる。’72年に制作されてんだけど、全然古さを感じない。
技術的に見劣りしないってだけでなく、何を画にしなければならないかはっきりしっかり定めて、狙ってる感じ。大変クリアーなつくり。

冒頭、軽装備でひとり雪原をさまよう主人公の画ヅラに、優雅とさえ思えるピアノ曲がかぶさって、もうここからなんとも言えない感慨が。
もっとも、これから主人公がどんな体験をするのか原作を知ってるからなんだけど(おお、なんかトラファマドール的だ)。
悲嘆とか憤怒とか、数多の戦争の悲劇に付き物の感情とは無縁の空虚さ。だからこそどうにもやりきれない。無情の、無痛無覚の惨たらしさ。

アメリカ人の主人公は第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜になり、収容されていた都市、ドレスデンで連合軍の爆撃に遭う。死者13万5千人とも言われる凄まじい爆撃に、一夜で美しい街並は廃墟と化す。
文字面では想像しきれない部分が丁寧に描かれていて、場面が場面なだけに重い。
捕虜収容所の描写なんかも秀逸。居丈高なドイツ兵とか、カチンカチンのイギリス英語でやけに元気なイギリス軍将校クラスの捕虜、気が狂っちゃったアメリカ軍大佐ワイルド・ボブとか、原作から抜け出たみたいにハマる描写。


ところでこれ、原作の挿絵としては完璧だとは思うんだけど、映画単独としてはどうなのか、少々疑問。
というのは、小説の仕掛けとして、時間軸の交雑とトラファマドール星人の思想が複雑に絡んでくる訳なんだけど、それがうまく映画の中で消化できてるのかなあ、ってところで。
原作をしらない人が観て、どう思うのか聞いてみたい。

主人公、ビリー・ピルグリム(ピルグリム=巡礼者)は、過去から未来へ流れる通常の時間軸から遊離していて、しかも自分でそれをコントロールできない。
アメリカの自宅でぬくぬくしてたかと思ったら、次の瞬間にはドイツで捕虜になっている。そうかと思ったらパーティーに出席してスピーチをする。
いつ、どの時間になるのか皆目わからないっていう、厄介なことになっちゃってる。どの時間を生きるか選べない。
このことは、ビリーに離人症的な感覚をもたらしている。

この交雑、時間がとっちらかる描写はお見事。
たぶん映画っていう、アタマから順繰りに時間を追って観てゆくメディアに合ってるんだと思う。ページを繰って読んでゆく小説でも同様ではあるんだけど、映画の方が時間軸の制約は強い。
いきなり切り替わってトんでみたり、細切れに絡んでみたり、ゆっくり重なってみたり、様々な効果を駆使して、とても丁寧に表されてる。


でもって、ビリーがトラファマドール星人に拉致されてその星の動物園で見せ物にされる、ていうエピソードが絡む。これ実は宇宙人とかSF的なガジェットにはあんまり意味がなくって、ある種の運命論的な思想をもたらす役割になってる。
トラファマドール星人はすべての時間軸を見渡せる意識を持っていて、つまり過去も未来もあんまり意味がない。
例えば彼らは死者に対して、“死んだものは、この特定の瞬間には好ましからざる状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ”(39ページ)というように考える。
現状の悲惨に嘆くのは複眼的な認識をもつ彼らにはあんまりピンとくることではない。そういう場合彼らはこういう。
「そういうものだ。」

んで、映画では、時間の交雑はともかく、トラファマドール星は思い切って取っ払っちゃってよかったんじゃないかと思った。画ヅラ的にあまりにも突飛だし、熟(こな)れてない気がするんだけど。
映画ではもっと違うかたちで、彼らの考え方がもたらされる仕掛けを考えてもよかったんじゃないかと思う。
もっとも、トラファマドール星の突飛さとかキッチュな事柄が、戦争の描写と絡んで、戦争ってことの異様な態を表すことに繋がってるのかしら、とも思うのでなんともいえないけど。


「スローターハウス5」を観る(読む)ってことは、ヴォネガットが自らの体験、ドレスデン爆撃を表そうとする、それがいったいどういうことなのか、ってことと不可分であるように思う。
著者はそれまでになんとか表そうとしたらしいのだけれど、語る言葉が見つからなかった。ていうようなことを、小説の冒頭で述べている。

体験を語るには、受けとめて理解しなければならないのだろうけれど。
ヴォネガットにとって、ドレスデン爆撃の体験は受けとめ得ないことだったのだと思う
小説に表してもなお、理解できない、異様な出来事だったのかもしれない。
ようよう言葉にできることは、小説に何度も登場する印象的なフレーズ、それだけなのかも。
「 そういうものだ。(So it goes.)」
前向きでも後ろ向きでもない、言葉通りにただそのままの意味しか持たされない、この言葉。
「 そういうものだ。」
繰り返し、繰り返し。

こんなふうにも言う。
“ドレスデンにまつわるわたしの記憶が、いかに無用のしろものであったかを痛感する。”(11ページ)

もっとも、誰にとってもそうなのかもしれないけど。
戦争にまつわる体験談はたぶんに類型的だ。悲惨と恐怖と憤怒と。

出来事とか事実は、容易に受け容れられるものではないんだと思う。
異様で、理解し難い。
爆撃とか戦争とか、ある出来事は、例えば炎や煙に追われる恐怖とか、敵への憎しみや怒りとか、愛する者を殺される憤りや悲しみ、平和への希求とか、出来事の周囲の物語になる。とても類型的な。
というか、そういう類型的な物語がなければ、理解できないものなんじゃないか。

ヴォネガットはそんな類型的な物語では語り得ないことを語ろうして、語る言葉がない、ってことを語ったんだと思う。
小説のラストは小鳥の声。

プーティーウィッ?






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galapagos

ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス
by galapagos (2010-07-28 03:06) 

シロタ


nice!とコメントありがとうございます。
galapagosさんのブログも興味深いですね。


by シロタ (2010-07-28 12:02) 

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