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「長江哀歌」再鑑賞 [映画]

「長江哀歌」の画ヅラのもっさりはDVD故か?の件について。

シネマート六本木にて、スクリーンで鑑賞できました。で、やっぱり、よくなかった。
もっさり。もったもたのボッテボテ。トーンカーブがおかしいのかな。暗部がベタベタにつぶれて、明部はスッカスカにトんでる。色も鈍い。
奥行きが浅くって、厚みに乏しいっていうか、遠近感、立体感が弱い。ズームとか長いレンズがなかったのかな、全ピン気味ののっぺり感。
今回は新たに撮影ムラが気になりました。カットが切り替わったところで画質、画の印象がガツンと変わるとこがあって、つぎはぎ感あり。
むしろDVDで鑑賞したときのほうがコンパクトなモニタ画面に収まってる分、粗もおとなしめでまとまり感があったんだと思う。

なんかね、本当はこういうふうに撮りたかった、っていうのがみえるような感じさえする。
「四川のうた」を観たら余計にそう思う。「四川…」の工場の画、成都の街の画、労働者の顔。こんなふうに撮りたかったんじゃないのかなー、と思ったのでした。
テーブルの上に並べられた茶菓や茶碗やコップの画は、中世の寓意画みたいな禁欲的な厳しさで撮りたかった。
廃墟や工場の画は、もっと細かい粒子で繊細にシアーに、けれども冷たく非情に無機的な硬質さで撮りたかった。
のじゃないかなー、と。

もちろん、映像は適正で鮮明であればよいってものではなく、表現効果として狙い、敢えて適正から外す演出ってことも作品によっては当然あるだろうけれども、「長江」の場合はストレスフルによくなかった。その画は違うだろ、と感じるストレス。
また、そのストレスが映画的に某かの効果を狙ってのことか、っていうとそうとも思えない。

効果といえなくもないのは、全体に滲むような劣化した画が、ダムに沈む奉節の街の死の気配を描き出していたかもしれない点。
女性が夫を訪ねた工場の画、でっかいタンクみたいな腐食した建造物のある風景を女性が歩く場面なんかは、平板に滲んだ腐食部分が画面全体を腐食するようで幻想的に死んでた。
ただし、それを演出する効果として最善の手法であったかといえば疑問が残るし、映画のテーマとしても滅ぶイメージだけが画を支配するのはそぐわない。
むしろ、水没する間際にあって際立つ人の姿の鮮やかさが、鋭く明滅するべきなんじゃないか、と思う。


ところで、最近、笙野頼子の著作(特に「だいにっほん」三部作とか)を読みふけり、国家と個人てことを考えるにつけ、「長江哀歌」の目線に気づいた。

三峡ダムって、遠大な国家プロジェクトな訳なんだけど、「長江…」で描かれる国家てやつが、所謂中国共産党がどうとか特定の国のイメージを超えて、否応なく抗いようなく個人が飲み込まれ組み込まれてゆく“制度”としての国家なのだと感じましたのですね。別にそのような言及がなされている訳ではないんだけれど。
二千年の歴史が二年で没する、それは人為なんだけど、人為を超えた“制度”がふるう力、非情な力が静かに圧倒的にふるわれているのだ、と感じさせられることでした。

で、そのことを安直に否定するでも肯定するでもないのだけど、あまりにも鋭利にざっくりえぐり出してみせる手つきに、個人としてのわたしはなんだか違和感を感じるようです。
なんつーかな。賢い人の言辞にたまに感じる、ひとごと感ていうか。
あんた誰なんだ。何者なんだ。 どこに居るんだ。
て問いただしたくなるような。


なんやらまとまらないままだけど、とりあえず、今のところの感慨としてup。




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