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「千と千尋の神隠し」 [映画]

ここ数年の傾向として、夏になると思索や考察、考えたことを言語化する行いが盛んになるというか集中しやすいというか、冴える(当社比)ようなので、夏に課題を設けてみることにした。
今年は、宮崎駿の作品を観て考えてみようかなーと思う次第なり。
先日来、「崖の上のポニョ」「ハウルの動く城」と遡ってきてて、で、「千と千尋の神隠し」。


初見のときは、実はなんだか反感を感じたのだった。説教くさく感じたもんで。
ていうか、周囲で「最近の子どもは甘やかされて躾がなってない、もっと厳しくしなくては」的なメッセージだと受けとって評する人があったりしたものだから余計に反感感じた。
なんつうかねえ、“「俺を超えてゆけ」オヤジ”っていうかね、子どもとか若者は大人の抑圧に反発することで成長するのだ父性の欠如が問題なのだ試練が通過儀礼がオヤジの壁が必要なのだ俺が壁だ超えてゆけ、な説教ナルシスオヤジによる、“ルーズでだらしない子どもが問答無用で叩き直され試練を乗り越えて成長する努力根性物語”ていう解釈な「千尋」支持に反感。

一面、正しいとは思う。無闇に甘やかして好き放題させていいとは思わないし、なんらかの試練を突破することで成長するってこともあると思う。自由には責任が伴うもので、子どもが我が儘勝手の野放しにされたところで我が身を損なうかもしれんし、大人の庇護と同時に制約されねばならんでしょう。

だけど、現代の困難とか不幸は、試練や壁が与えられないことじゃなくって、試練が試練として機能しない、意味を失ってることなんじゃないですかね。
試練を超えたところで何もない。
もう既に、明解な階段状に壁を越えてステップアップってありえないじゃん。順繰りにダンジョンをクリアしてゴールに辿り着けるような単純な社会じゃない。
難しい試験を突破して立派な大学に入学したところで就職口はない、なんていうのは卑近な喩えになっちゃうけども。
そもそもゴールってナニ? いったいどこ? って目的自体がわかんなくって、大人だってうろうろオロオロしてる最中、目的のない障壁だけが嫌がらせみたいに立ちふさがる。
この徒労感。

そういう時代にあって、千尋がさくさく試練をクリアして問題を解決してゆく姿というのは、うまくいきすぎっていうか、なんか違くね? と思ってしまったのです。
時間が経って、何度か観直すうちに、内的な世界の掘り起こしと言うか、もっと深い探索・探求みたいなことも感じられて、そういう一面的な印象は薄れてきたけども。


ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」との関連
たぶんどっかで誰かによって既出だろうけど、「千と千尋の神隠し」って、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」(岩波書店)との関連、比較で論じられるんじゃないのかなー。
千尋=バスチアン、ハク=アトレーユ+フッフール、湯婆婆+銭婆=幼ごころの君(!?)。
湯屋で神を癒す湯水、海、川の主やハクやカエルたち水の眷族、全編にたたえられる水のイメージは「はてしない物語」の“命の水”を思わせるし。
エンデは映画「ネバーエンディングストーリー」に激怒したらしいけど、「千尋」を観ることができていたら喜んだんじゃないかなー。千尋を載せた竜が疾駆する場面とか、大喜びしそう。


湯屋の世界
神々の湯屋を構える「千尋」の世界は、一見カオスに見えて、厳格なルールとシステムがある。ていうかシステムこそが世界。

誰もこの世界のルールや決まりごとに逆らえない。
湯婆婆でさえ、ていうか、湯婆婆こそが最もルールや決まりごとに通じ、システムによる秩序を守ろうとしている。好き勝手は出来ない。最愛の坊に「婆のけち。嫌いになっちゃうぞ」と言われて涙目で弱っても、ルール遵守。
千尋が「働かせて下さい」と訴えたときのやりとりでも、湯婆婆はすんごい迫力でダ〜メ〜!って迫るけど、千尋に手出しはできない。「ったく、仕事を欲しがるものには仕事を与えるなんて、やっかいな誓いを立てちまったもんだよ」ってぼやきながら、誓いに従って千尋と契約を交わす。
湯婆婆とハクも契約関係なんだけど、ハクが自分の名前を忘れてしまっていることで、対等なはずの契約が一方的な力関係になっちゃってるのかな。
魔女にとって大切なものとしての契約印が出てくるけど、魔法とは契約によって発効する「法(ルール)」であって、無秩序で恣意的な力ではない、ということ。

ところで、湯屋ってどう見ても遊郭ですよなー。
初っ端、ハクと千尋が湯屋の前の橋を駆け抜ける場面で、女性たちの着物の裾が風で翻っていやーんて仕草とかちょいセクシャルだし、白拍子装束も遊女の風俗だし。
車で寝転がって無気力な千尋がいきなり遊郭の下働きに放り込まれるってのは、やっぱり“ルーズでだらしない子どもを問答無用で叩き直す”なのかなあ。まあ、ごしゃごしゃ言ってないで黙ってやれ、まずは行動しろ、みたいなことが有効な場合もあるだろうけどな。行動療法みたいな。


千尋に与えられる試練
・「働かせてください」
 仕事は漫然と与えられるものではなくって、自ら求めて得るものである、ってこと。
 また、この世界で人間である為に存在を主張すること。わたしはここに居ます、と言うこと。
 自分の意志を通すこと。「ハウルの動く城」でサリマンと対峙するハウルの場面「戦いたくありません」
 と地続きな感じがする。

・湯屋の仕事、川の主をもてなす
 端的に肉体労働。骨惜しみせず働くこと。

・ハクを助ける
 恩義に報いること。

・カオナシと対峙する、銭婆に謝罪に行く
 責任。
 カオナシは千尋が招じ入れた。その責任を果たすこと。
 ハクを助けるため、ハクの犯したルール違反の償い、責任を引き受ける。

・親を見分ける
 これまでの試練によって得られた力すべてを発揮してものごとに向き合う。
 本質を見抜くこと。真なるものごとを見極めようとすること。
 知識に対する知恵、みたいな感じもする。

どれも大事なことなんだろうけど、やっぱり説教くさい。苦笑。

いずれも千尋ひとりでクリアできた訳ではなくって、ハクや釜爺やリンやカオナシや川の主の苦団子の助けを得られて乗り越えられる。
ただ、千尋は後半に進むに従って、ナウシカ化するっていうか、超人じみてくるような気がするんだけど、どうなんだろそれ。
聡明で特別な能力のあるスペシャルな子。湯屋の世界の救世主。
千尋「あなたは元居たところに帰った方がいいよ」
ナウシカ「森へお帰り、ここはお前の住む世界じゃないのよ」

宮崎駿は、スペシャルな救世主が居なくっても世界が救われる方法、みたいなことを追求しようとして、でも、どうしても愚かさとか悪が矯められなくて許せなくて、そういった負のパワーに負けないためにナウシカが出てきてしまう。のかなー、とか思う。
「ハウル」のソフィだってスペシャルで特別だし。
漫画版「ナウシカ」ではナムリスがナウシカを罵るけど、あれは愛憎半ばというか、ナウシカを求める気持ちとナウシカを超えようとする気持ちの葛藤みたいに感じる。
「ポニョ」でようやく、ナウシカが消えた。
帰った方がいい、というナウシカ・千尋に対して、ここに居ていいよ、どんな姿でも好きだよ、という宗介。
なんでもないフツーの子どもが世界を救えるってこと。
なんちて。


カオナシ
最近観直して改めて思ったのは、このお話ってカオナシが主人公だったんだなー、ってこと。こいつが居なかったらものすごおーく道徳教材ぽい。既に修身レベル。

冒頭、引越の車中の千尋は、えらく生気のないつまらなさげな様子、やる気のないだらしない姿で描かれてて、千尋の心中としてなんか行き詰まってることが窺える。
この行き詰まり感、行き場のなさ感は、カオナシの朦朧と右往左往なオロオロ感に繋がる気がする。

カオナシは千尋自身。
ていうか、千尋が迷い込んだ世界は千尋の心の中、内的世界なんだろうから、ハクも釜爺も湯婆婆も坊も銭婆もリンもまっくろくろすけ似のわさわさした煤のアレもみんな千尋であって、それぞれに物語があるんだけど、湯屋の世界のお話の中で最も動きがあるっていうか、居ないとお話にならない度が高いというか。
物語を牽引するのは、千尋が元の世界へ帰る、っていうベクトルなんだろうけど、湯屋の世界のルールに従っているだけではそのベクトルは動き出さない。ハクの契約問題も膠着したままだし、坊も閉じこもったまま。

俺!俺!!俺をかまえ!!俺の思い通りになれ!!ていう強烈な欲望と、その欲望に縋りつくのはとてもつらいんだけど欲望によってしか自我が保てなくって、そう思い込んでしまっていて、逆に欲望に振り回されて自分を見失ってしまう姿とか、その飢餓感・焦燥・不安・恐怖・攻撃性が、物語世界を歪ませ、動きを生み出し、他の登場人物や世界の秩序を脅かす。
千尋に「あなたは元居たところに帰った方がいいよ」て言われて、怯んだカオナシのお面部分が体にめりこんで埋まりそうになる描写は秀逸。攻撃性が自分に向かいそうになるところ。

カオナシがゲロ吐きながら暴走する様というのは、イドの奔流なんだと思う。
ぐわーっ、とか、どびゅーっ、とか、どろどろぐつぐつだばだばぎたぎた、勢いとかほとばしりを表す擬音擬態語をありったけ当て嵌めたくなるような、すんごい勢いのエネルギー体が噴出する、迫ってくる表現というのは、他作品にも顕著にみられる。
王蟲の暴走や巨神兵の咆哮、ラピュタのビーム砲、タタリ神、金色の魚と共に上昇するポニョ、みんなそうだと思う。
イドというのは、生命力の源泉ていうか、根源的な欲望、みたいなイメージで捉えてるんだけど、ていうか、上述のぐわーっ、な映像表現によって、イドていう概念を印象づけられてたりする。そっか、イドってこういうことか、みたいな。

宮崎駿はものすごく欲望の強い人なんだろうな、とか思ったりする。
この人は、表現手段を得られて、表現に邁進することが出来て本当によかった。
千尋も宮崎も、電車に乗れてよかった、って言うんですかね。






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三級映画技士

こんばんわ♪
「千と千尋の神隠し」の考察興味深く拝見しました。
こうして読んで見ると改めて、本作が道徳的にも優れた作品であるという事が感じられます。

ただ本作がそれだけにとどまらない要因としてのカオナシなんですねー。
私があの映画で一番感情移入したのもカオナシでした。なんだか凄く人間っぽくもあるんですよね。



by 三級映画技士 (2010-07-14 22:25) 

シロタ


三級映画技士さん、コメントありがとう。
いろいろな要素やテーマが複雑に絡み合っていて様々な受けとり方ができる映画なので、観れば観るほどイメージや考察が広がり深まりますよね。


カオナシ、観ててつらかったですよ。自分を見てるみたいで居たたまれないっつーか(笑)。

でも、カオナシこそが千尋を助けてくれたのかなあ、とか思うんですよ。
千尋にはカオナシが必要だったんだと思います。


by シロタ (2010-07-15 09:59) 

お鈴

シロタさんこんばんは^^

千と千尋…夏にみたくなる作品ですよね。
いつも素晴らしい久石さんの音楽もいつもにまして素晴らしいですよね…
(いま千尋の音楽聴きながら書いてます^^)

エンディングの美しさも一級品だと思います。
(一方ハウルのエンディングは余韻がなさ過ぎる気が…。笑
 倍賞さんの歌がちょっとねぇ。。^^;)
普段の生活の中でも、フィクションでも、
涙腺の硬い(?)私なのですが、
ハクの名前のくだりから最後までいつも目がうるんでしまってます。
エンドロールのあとのさいごの静止画もたまんないんですよねぇ…
監督が知りあいの娘さんに捧げた作品とのことですが、
あのくつを落としたエピソードもほんとにあったらしいですよ。
それを鈴木さんに公で話されて怒ったのだとか。
監督つくづくロマンチストですね。^^ 笑
by お鈴 (2010-08-13 02:13) 

お鈴

ちなみに私はこの『千と千尋の神隠し』公開時期が、
いちばん宮崎駿作品に興味をなくしていた時期でした。
今思えば、
子ども時代の最後に大作『もののけ姫』を観て
一段落した感があったのと、
自分の激動の(?笑)十代にいそがしく、なつかしの宮崎世界と
リンクする部分がなかったのかなぁと思います。

なので大ヒットも華麗にスルーし、笑
これおもしろいの?くらいの温度でDVDで初めて観ました。
(あ〜今なら劇場で観たいなぁ。
 宮崎全作品が劇場でかかることがあったら、
 迷わず一本目は千尋です。)

余談が長くてごめんなさい。笑


《説教臭さについて》
もののけ姫とおなじくらい説教臭いとよく評されてる作品ですよね。
トトロから宮崎イズムをすりこまれてる(笑)世代だからだとおもうんですけど、
私は宮崎作品に説教臭さ感じないんです。

千尋も、注意して観れば、
最後の千尋が『ありがとう』『おせわになりました』
を言えているところなんて【こうであれ】って提示にみえなくもないんですけども、
そういった、律儀であること、ストイックであることへの奨励より
私はこの作品には千尋(こども)への信頼を感じます。

冒頭の千尋は、目的もなにもなくて
周りの人間に、
自立した人間として認められてもいない。
人間(こどもでも)そういった状況が一番つらいんじゃないかなって、
最近よく思うんですよね…。
千尋は遊郭にほうりこまれるけれど、
一人前の働く個人とされて、目的も得る…
(最初は消えないため→ハクと親の為)

なんというか、大人の
【しゃんとしろ!】
という叱責にはみえないんです。
こどもであれ、
スタートラインに立たせてくれる環境だなぁ。と
こどもでも“自立した個人”として信頼してくれる大人を、
こどもは信頼するし、力を出せるようになるし、
期待に答えようとするものだと思うんですよね。

リサに託される宗介、
おかみさんにシータを守っておやりといわれるパズー、
耳すまの西老人も雫を信頼していたなぁ。。

ジブリ社内幼稚園でわざと危険な広場をつくると、
こどもが生き生きし出したというエピソードや、
監督が知りあいの小学校高学年の子どもに
チェーンソーを使わせたエピソードにも同じ考えを感じます。
(母親が観ていると心配して逆に危険だから
 母親がいないときにやらせるのだとか。
 分かる気がします。笑)


だからこそあの電車のシーンにも惹かれるのかもしれません…
初めて保護者抜きで電車に乗って遠くに行くって、
凄い体験ですもんね。
信頼された証でもありますし。


>千尋も宮崎も、電車に乗れてよかった、って言うんですかね。

インタビューで
もののけ姫で封印した空を飛ぶシーンがありましたね。
といわれた監督が、
いや、あれはたいしたことじゃありません(だったかな?^^:笑)
それよりも電車に乗れてよかった。
と答えていましたよ。^^
by お鈴 (2010-08-13 03:02) 

シロタ


お鈴ちゃん、コメントありがとう。
宮崎駿作品の記事は、お鈴ちゃんにコメントもらうとキンチョーするよ(笑)。ホント鋭いからなあ。

「千尋」公開時、わたしは教育関係の出版社に勤めてたこともあって、周囲に教師や教育関係の人が多く、どうしても教育的立場からの子どもに対する意見が耳に入ってきたのね。
また、この頃「新しい歴史教科書をつくる会」ていう人たちの検定教科書が話題になってて、教育をめぐって思想的な対立が過熱気味な雰囲気だったんす。
で、そういうのってみんな、子どもをダシに自分たちの思想や既得権を争ってるように見えて、うんざりしてたのです。

だもんで、子どもじゃない人が子どものことをああだこうだ、っていう状況そのものが、もう、お腹いっぱい状態で飽和してたようなとこがありますね。
冒頭の、リアシートでだらしなくごろごろしてる千尋の描写とかが、子どもを批判的に描写してるみたいに思えて、またかよー、って。


でも、お鈴ちゃんのコメントにハッとしましたです。

>冒頭の千尋は、目的もなにもなくて

>周りの人間に、

>自立した人間として認められてもいない。

>人間(こどもでも)そういった状況が一番つらいんじゃないかなって、


冒頭の千尋は、一見子どもの自由を尊重しているように見えて、実は放ったらかされてることのやりきれなさっていうか、緩慢なつらさみたいなものが描かれているのかなあ、と。
千尋の両親は千尋と顔を見合わせて会話することがいっさいない。ほったらかし。
信頼して尊重されることと、放ったらかされることって全然違うよね。

なんかで読んだけど、成長を描いた話ではなくって、千尋がもともと持って備えていた力が目覚めていくんだ、って宮崎駿監督も語ってたそうですね。
まさに、子どもへの信頼が感じられるエピソードですよね。


ただ、これは世代的なことだと思うんだけれど、やっぱり宮崎監督に対する反感は拭えなくって(笑)。
現代の若者や子どもの苦しみ、閉塞して逃げ道を塞がれて窒息しそうな苦痛が本当にわかってるのかな、ていう。

「ゲド戦記」の宮崎吾郎監督の苦しみには寄り添えないだろうな、と。今の世の中の閉塞と鬱屈は、頑張れば道が拓けた世代の人、フツーに働けば右肩上がりに将来が描けた時代の人にはわからない。

「しゃんとしろ!」ていう叱責なんかは既に論外だけど、「君はできるよ、やってごらん」と信頼されることにさえ、尋常じゃない重さを感じて竦んでしまうことってあると思うんだよね。
それっくらい、行き詰まってる。

あーでもこのへんは、こないだNHKでやってたアリエッティの制作裏話ドキュメンタリー見た印象で感じたことかも。
編集のせいかな、ツラさとかプレッシャーばっかり強調されてる気がして。ジブリ、ヤバそう。
とにかく息苦しくって、ものづくりのワクワクする雰囲気がぜんぜん感じられなくってねえ。


うーん。
ちょっと千尋から離れちゃったかも。

by シロタ (2010-08-15 04:32) 

スヱ

シロタさん、大変お久しぶりです。記憶に残っているかアワワですが、スヱです。
とっても興味深い話題だったもので、ちょっとお邪魔させて頂きます。
ORLINさん、横からすみません。コメント大変興味深く拝読しました。

>宮崎監督に対する反感は拭えない
宮崎監督大好きなんですけど、この気持ちものっっすごくわかります(笑)
きっと、子どもや若者の苦しみは本当にはわからないだろうなぁ…と思っています。
というかやはり、「経験していない」ものはわからないだろうなぁ、と。
平成に宮崎監督が生まれていたらどうなっただろうと考えると、また別の人格になっていたろうと思いますし。
才能って時代性も関係あるなぁとしみじみ思います。

>吾郎監督の苦しみには寄り添えないだろうな
「ゲド戦記」観終えた後、「確かに酷いと言えば酷いかもけど、そこまで嫌いじゃないぞ」
と最初に思いました。なんでそう思うのかなぁ、といろいろ見ていたら
吾郎監督wikiに「父親の作品よりも押井の作品を評価することが多い」とあって納得しました。
ああこの鬱屈した感じ、押井守監督風なんだよなぁ、と。「スカイクロラ」に通じるような憂鬱さ。
最近出た「風の谷のナウシカ GUIDE BOOK 復刻版」に押井監督のインタビュー(なんと1984年のもの)
があり、吾朗監督の思想に共通しそうな箇所が多くありました。少し引用させて頂きます。

《(中略)~ぼくの世代はテレビアニメで生まれ育った。つまり長編漫画の伝統がまったくない。
だからアニメの作り方にしろ、考え方にしろ、宮崎さんたちとの世代とはノウハウに違いがある。
つまり、あの人たちが信じているものが、僕らには信じられない。
例えば「ナウシカ」では理想的な共同体が「風の谷」という形で描かれる。それは「ホルス」「コナン」も同様。
ところがぼくらは共同体や中間という存在がストレートには信じられないところに立って作品を作っているんだと思う。
だから、人間が守らなければならないものを描くにしても、あんなふうになんの疑いもなしにはそれを描けない。
この違いがぼくと宮崎さんの思春期の体験のちがいなのか、さっきいった世代の違いなのか、はっきりはいえないが、
とにかくぼくにはああいうふうな臆面のなさはないと思う》

駿監督作品の方法論についても、
《ぼくは共同体(スタッフ)の中でしか仕事はできない。ある程度からさきはその人にまかせて、
ダメだったら「心中じゃ!」というやり方です。でも、出来上がった作品からは共同性は逃げてしまう。
宮崎さんは、スタッフにイマジネーションを捧げることを強要して、つねにワンマンショーでしかものをつくれない。
なのに、作品では共同性をストレートに表現している。
作り方と作品がまったく逆だというのは、おもしろいもんだなあと思いますね》
と語っています。ほんと、おもしろいなぁと思います。

どの世代にもそれぞれの苦しみがある。
宮崎駿監督が吾朗監督作を、切り捨てるのではなく理解しようとした時、なにかとてつもない作品が生まれる気が…
なんて、ふと思ったりしますが、どちらも歩み寄ろうとするのはほとんど無理でしょうね。
そこまで駿監督に要求するのも酷ですし。…人って環境と経験の動物だなってつくづく思います。

もっと千尋から離れてしまいました;千尋に戻ります。
千尋、観終えてほんのり怖くなった作品でもありました。
千尋の両親はおっしゃるとおり千尋を「ほったらかし」ですよね。で、あげくに神様がいる世界では豚にされてしまう。
でも、豚になってしまうような親にも、子供はしがみつくしかない。子供はただ純粋に親を求める。
もし、千尋があの世界に迷い込まなかったらどうなっていたでしょう。
千尋にはハク、五月とメイにはトトロ、雫には西老人という、いわば精神的なライフラインがありましたが、
それが得られない現実の子供たちはどうなるのでしょう。
本当にこどものためを思うなら、まずは大人が救われなくちゃならないな、と最近改めて思います。


>アリエッティの制作裏話ドキュメンタリー
重かったですね~ひたすら。プレッシャーに次ぐプレッシャーって感じで、以前何かで見たピクサーの現場と大違いでした。
宮崎駿と言う人は巨大な才能を持つ人ではありますが、光が強い所では影も濃くならざるをえないんでしょうか…。
あ、制作裏話ついては最新号の「CUT」もかなり面白かったです。駿監督、濃すぎる。

…なんだか長々々々と申し訳ありません。ブ、ブログに書けって話ですね;失礼しました。
by スヱ (2010-08-25 20:59) 

シロタ


スヱさんっ!スヱさんだっ!嬉しい!
記憶がアワワなんてそんな、覚えてます。すっかりご無沙汰してしまってむにゃむにゃむにゃ(語尾をぼやかすオトナの挨拶w)
こちらこそ、覚えていただいてて光栄です!

しかも、こんなに熱心にコメント書いていただけるなんて、嬉しい〜。
今日いちんち嬉しくてニヤニヤしてました。しばらくニヤニヤの日々が続くくらい、嬉しいです。


やっぱり宮崎駿監督って団塊なのよな、とか思ってしまい、シロタは多分に団塊ヘイターなので、どうにも反感です。克服したいですけどね。

吾郎監督の「ゲド戦記」わたしも嫌いじゃないです。ていうか、よく出来てるじゃん、と思いました。
仰る通り、あの鬱屈した感じ、世界に対する懐疑・不安、不穏さが全編に満ち満ちて、で、その感じは現代の閉塞を確実に捉えてるように思えます。
わたしもwiki読みましたよー。押井守に納得、同感です。烈しくはなばなしく同意。
インタビューの引用、ものすごく興味深く拝読しました。ありがとう!
方法論の違いのとこなんて、強烈におもしろいっすね。

>ぼくらは共同体や中間という存在がストレートには信じられないところに立って

ここんとこ、これ、わかる気がしますわー。
そして、吾郎監督に通じるっていうの、すごくわかります。
世界が正しいなんて思えない。ていうか、厳然と正しいものごとがある、とは信じられない。
今、“正義”ってことが盛んに取沙汰されるのもそれが揺らいでいるからだと思います。

で、実は吾郎監督の苦悩に対してのアンサーが「ポニョ」なのかなー、と、うっすら思ったりはするんですけどもね。
歩み寄ったり受け容れたりってのとは全然違うけど、まあ頑張れ、大丈夫だ、的な。
俺はもう死ぬし大丈夫だって言う根拠も何もないけど、オマエも世界も大丈夫だ。みたいな(笑)。

>本当にこどものためを思うなら、まずは大人が救われなくちゃならないな
これ!これぐっとキます!
ホントそうですね。誰かが犠牲になるんじゃダメなんです。救われないと。
誰かが救われることで、別の誰かが救われるんです。


>>アリエッティの制作裏話ドキュメンタリー
番組のつくりが苦労話強調の努力根性辛抱我慢劇場だったっていう疑いをもってはいるんですが(「アリエッティ」自体はよく出来てると思うし、プレッシャーだけでつくられたとは思わないので)、それにしても重苦しんどかったですわ。もうジブリ解散して駿抜きでイチからやりなおしたほうがよかないか、とか乱暴なことを思ってしまいました。
ピクサーは所さんの「笑ってコラえて!」ですね。あれは所さんも番組自体も楽しくへらへらしてるので、余計に差が際立ちますが、ピクサーの絵描きさんは実に楽しそうでしたよねー。お絵描き大好き楽しいぞ♪な明朗な陽性の力強さ。


長々と書いていただけるのは大歓迎でちっとも申し訳なくないですが、よかったらぜひブログも更新してくださいね♪
本当に、コメントありがとう。嬉しかったです。ニヤニヤ。



by シロタ (2010-08-26 16:35) 

スヱ

足元にレッドカーペットが見えてくるほどのお言葉、痛み入ります…!しかも拙ブログにまでおいで下さり、重ねて有難うございました。
コメント後「まてよ…覚えてもらっているかもわからない中でこんだけの長文ってやばくないか?いやそれを越えてキモくないか?しかも割って入ってるしオウフどうしよう、あっそうだコメント削除!………できない…だと…?こ、これは罠だ、私は嵌められたのだ!とトンチンカンな責任転嫁しかけてましたが、ほっとしましたーあー本当によかったですw
いやはやシロタさんの評は筆を刺激させる巧みさがあり、しかも宮崎駿とくればでついついスイッチが入ってしまいました。
そして私もニヤニヤ続いていますwシッポ生えてたらフル回転してるぐらい嬉しいです。
こちらこそ覚えていて頂いて至極光栄の至り、残暑厳しくむにゃむにゃ…ですw

気づけばコメントに夢中になりすぎて本記事へのコメントを逃していましたのでさせて頂きたく候。
千尋見解、うんうんと大変面白く拝読しました。シロタさんのジブリ見解っていつも楽しみなんです。(アリエッティの記事は自分のレビュー書きあがるまで我慢してるんですけど、またコメントにお邪魔したら遊んでやってくださいw)
>目的のない障壁
ほんと問題はそこなんですよね。ずばっと言い表せてしまう明晰さがいやはや羨ましいです。
反面、世の中がどんどんシンプルになっていってるのかもしれない、とも思ったり。カネが信じれなくなって会社が信じれなくなって最後に残るのは何かって言ったら、共同体とはまた別の、ごくごく身近な人との小さな繋がりであるような気がして。いや、そうあってほしいのかもしれないです。回帰するように願いたい。


以下、恐縮ながらコメントへの返信です。

>団塊
団塊は…思うところ多々ありますよねぇ。私もヘイターかもです。
でも好かないまんまでいいやとも思います。感謝とは別問題で否定するとこは否定しとかないと下に連鎖しますよきっと…と言い訳。
これについては長くなりそうなので最後で…

>吾郎監督
やはり押井守ですよね!多分押井節が嫌いじゃない人にはゲド戦記はいけるのかもと思います。そしてまさに「世界に対する懐疑・不安、不穏」「現代の閉塞」でしたね。レビュるならタイトルは「恐るべき現代性」だなと密かに思ってました。
引用、興味深かったようで良かったです、甲斐がありました。押井守の共同体論、同調してしまいますよね。加えて方法論の面白さといったら。なんか最近作品より駿監督研究する方が楽しくなってたりします。本人は分析する奴はクソだって言ってますけどw

>よく出来てる
吾朗監督、めっちゃくちゃ真面目なんですよね。駿監督が超・本能的なのに対し、物凄く理性的で建築的。でもそれが多くの人には「つまらない」って言われてしまう…これには結構切なさを覚えます。「真面目なヤツはつまらない」って言われちゃうような切なさ。
また引用ですが、知恵袋に興味深いゲド見解あったのでのっけときますね。お暇でしたら→http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412097374

>厳然と正しいものごとがある、とは信じられない
すごーくわかります。果たして、今まで純然たる正しいものごとなんてあったのか?と思ってしまう時すらあるんですよ。いや世界は壊れ続けてるんじゃ?的な、萩尾さんの「エッグ・スタンド」な考えを個人的には持ってしまいます。(最近萩尾萩尾言ってるなぁ…)

>正義
取り沙汰されてますねぇ。改めて問われるべきとは思います。今がその時なのかもしれません。けど正義って、たまねぎ剥き続けたら何も残らなかった…みたいな、追求し続けると何も無いとこに行き着く気がしたり。結局それぞれの都合を擦り合わせてやっていくしかない気がします。問題はどう擦り合わせるか。それがとてつもなく難しいんですよね…。

>アンサーが「ポニョ」
激しく同意です。こんな記事がありまして→《宗介のモデルは宮崎監督の長男吾朗氏。 吾朗氏が昨年、「ゲド戦記」で映画監督デビューしたことを、宮崎監督は自分への反抗ととらえ、「こんなことになったのは吾朗が5歳の時、仕事ばかりで付き合っていなかったからだ。 二度と吾朗みたいな子をつくらないために」と反省の気持ちを込めているという。》
ソースがスポニチなんでアレですが、「虫眼とアニ眼」という対談本読む限り、駿監督は「自分は子育てに失敗した。だから他人には子育てについての意見は言えない」と言っていて。この「失敗」も上の「二度と~」(これは本当かわかりませんが)も、我が子がいないところでも言ってはいけない言葉だよなぁと思うんですよね…。あと、親に(そのつもりはなくとも)競われるって結構キツイ事態。この辺に闇が隠れてそう。現代の閉塞感にしたって、何に感じてるかと言うとやはりそれは親世代でもあるわけで(アレンが父親刺したとこなんてモロですね)。特に団塊は…なんというか、自分は正しいという尋常じゃないまでの自負心があるんですよね。「担ってきた世代」としては当然かもだけれど。
その自負心は駿監督にも通じていて、なまじ自分にとてつもない才能があるものだから、他人を簡単に切り捨ててしまう所がある。「もののけ」のメイキングとか見てると「これが描けないやつは無能」「(人の作画みて)こういうの見てると殺したくなる」とか、凄くて。押井監督の方法論の話に戻すと、確かに駿監督作は凄まじい自負によるワンマンショーだからこそ「信じきった」作品が出来る(いうなれば"ひとり"の作品)。けれどそこには、視聴者である「遠くの子供たち」は信用できるけれど、スタッフを含めたこの世の「大人」は信用できない、という矛盾した事態が起こってくる。で、子どもは何を見て育つかというと、その「信用されなかった大人」なわけで。団塊代表として宮崎監督を例に出してますが、多くの親子関係に通じることだと思ってます。遠くの子どもには向き合えるけれど、自分の子には向き合えない、という矛盾。そうして矛盾は理不尽を生み、理不尽は抑圧を生む。
…なんか批判みたいになってきてしまいアワワですが個人的にはそのつもりではなく、「ただ何が起こっているのか知りたい」という探究心で書いてます;
余談で、世代差について面白いものを。お暇な時にでもhttp://japan.digitaldj-network.com/archives/51652866.html


>根拠も何もないけど、オマエも世界も大丈夫だ
あーすごい腑に落ちます!ポニョはこれにつきますね。同時に、なんていうか、ぽーんと突き放された気も個人的にしました。あ、どうにもなんないんだ、やるしかないんだ、みたいな。ある意味駿監督の子離れ映画かもと密かに思ったりします。
ふと思うんですけど、人間が物語で「生きる力」を得るのにもう普通の人間じゃ間に合わなくなってる感があるように思いまして。近年のアニメ映画に関してですが、ポニョにおいては人間でないものに「人間になりたい」と語らせなければいけない。「河童のクゥ」では人でない河童に「生まれてきてよかった」と言わせなければ勇気付けられない。「スカイクロラ」では、永遠に子供のままであり、あまりに理不尽な使命を課せられた彼らに「生きたい」と言わせなければならない。アリエッティも「小人」でしたね。凄く穿った見方をすれば「普通の人の“生きたい”」がなくなっている…今の世界を肯定するには、人ざるものに頼まざるをえなくなっている…というのは考えすぎだといいんですが。あ、これは現代に限ったことではないのかもです。

>誰かが救われることで、別の誰かが救われるんです
あー私はこれにぐっとキました!世の中、幸せの連鎖と不幸の連鎖がそれぞれ綿々と続いてると思っていて。で、不幸の連鎖から立ち直るのは血を吐くぐらい苦しいと思う。言ってしまえば「幸せ」だって要は「経験」で、知らなきゃできないし分からない。これは環境の問題がすごく大きくて、暗部にいる人間はおそらく幸せなんてあると思いたくない。自分の世界が崩れてしまうから。この大きな断絶も、救いの連鎖を少しずつでも広げることで回復に繋がるのかもしれませんね。今の世の中、人の苦しみを抑えつけたがる人が多いですが、どんな苦しみも語られるべきだし、癒されるべきだろうと思います。千尋が救われるには、カオナシも救われなければならなかったように。

>>アリエッティの制作裏話ドキュメンタリー
努力根性辛抱我慢劇場ww笑いましたwあれ、「CUT」の駿氏・鈴木P・麻呂さんインタビュー読んでるとあながち誇張でもない感じに思えてしまいました。インタビュでは和やかに話してますけど、こりゃ寿命少し縮むくらいにはしんどかっただろうと。だとしてもおっしゃるとおり「プレッシャーだけでつくられたとは思わない」と思えるデキだから何気に凄いですよね、うん。そういえば駿氏が発した一言「上の世代が必死になってやってきたとこにのうのうと座ってんだから」というのがあって、これにゃあぞくりときましたです。
「ジブリ解散」これ、してほしい!なんか逆にすごくワクワクするのはなんででしょうw

ピクサーは笑ってコラえてだったんですね。個別の部屋与えられて好きに飾って、車内をボードで乗り回してで遊び場みたいだった覚えがあります。本当「お絵描き大好き楽しいぞ♪」でしたね~国民性の違いと言いますか、アメリカはネアカっぽくて、日本人はネクラぽいのもあるんでしょうかねぇ。日本は特に内へ内へ向かう感じ。だからできる作品はあるんでしょうけれど…。


あーやっぱり暑い外気より暑苦しいエゴ(しかもなんか暗い)の垂れ流しになってしまいました;ちっとはコンパクトに書けんのかいという感じでまとまりがなくアイタタなのですが、読み流してやってくださいませ。今度こそはちゃんとブログに書きます;w
またしてもおじゃましました。こちらもニヤニヤですw
by スヱ (2010-08-29 15:43) 

シロタ


スヱさん、たびたびお越しやす〜。
そりゃもうレッドカーペットにシャンパンとディナーもサーヴいたしますですよ、花火と楽団付きで。
なので、またいつでも罠に嵌まってやって下さいw

>>目的のない障壁

もう誰も学歴も企業も結婚も信じてないのに、受験とか就活とか婚活(だせえ)とか、障壁だけがもりもりハードルあがりまくってんですよね。

>世の中がどんどんシンプルになっていってるのかもしれない
>最後に残るのは何かって言ったら、共同体とはまた別の、ごくごく身近な人との小さな繋がりであるような気がして。
そうですよね。ちゃんとご飯食べるとか、そういうシンプルなことですね、きっと。学歴は信じられなくても、ご飯は信じられるから。
で、いっしょにご飯食べる相手、ご飯を提供したりされたりする相手だとか、そういう小さな繋がりはずっと続くはずなんですよね。うん、そうあってほしいです。


>吾郎監督「ゲド戦記」
知恵袋のリンク先拝読、誰でも失敗するってw身もフタもないですねー。
ていうか、こんな超有名原作を扱うのは誰にとってもリスキーだし、また、著名人の二世は評価が厳しいだろうし、こんなマイナススタートの仕事よくやったよなー、とか思います。
そんな状況で、おとなしく原作に忠実にしとけばまだ風当たりも穏やかになったかもしれないのに、かなり大胆な解釈で自分なりの作劇を試みた訳でしょう。相当な意志というか、胆力を感じます。
駿監督との手法の違いはともかくとして、そういう意志の強さ、我の通し方なんかは似てる気がしました。頑固親子。
真面目さも、堅苦しいとか理屈っぽい感じではなく、感情豊かで細やかな情緒を感じますけどね。草原でのテルーの歌、あの物悲しさは結構クるけどな。欺瞞と理不尽極まる都市の場面と対比して、より一層せつない。
押井守の理屈っぽさとはまた違った、透明な諦観があるんですよな。
って、わたしは判官びいきなとこがあるもんで、世間で悪し様に言われるほど庇いたくなっちゃうんですが(笑)

駿監督は、親父としてはかなり最悪なこと言うんですね。そりゃ酷いな。
ていうか「ゲド戦記」を自分への反抗ととらえるのは、ちーと自惚れ過ぎな気もします。父親として。
吾郎監督は、そんな個人的な感情でつくった訳じゃないと思うけどなあ。

>「上の世代が必死になってやってきたとこにのうのうと座ってんだから」
にしたって、わかってないなあ。
そういうところにのうのうと座るしかない、っていう苦しみだってあるんだのに。
世代差、今どきの若いもんは、ってホント永遠ループなんすかねw

まあただ、駿・吾郎親子はイイ感じに闘ってる気がします。噛み合ってるんじゃないかしら。
それに、作品でやりあうことができるなんて素晴らしいよ。

>人間が物語で「生きる力」を得るのにもう普通の人間じゃ間に合わなくなってる感がある
これ、おもしろいですね。このへんのところを、ぜひブログで。
所謂フツーの人(例えば中流核家族サラリーマン家庭育ちの人、みたいな)像が崩壊してきて、フツーの影に抑圧されてきたフツーならざる人や生活の姿が見出されている、なんていうこともあったりしますかね。今、もうフツーは成立しづらいのかも。


たびたびの熱心なコメント、ありがとうございます。
すっごく嬉しいです。
スヱさんのブログも楽しみにしてますね。
とはいえ、お気楽に。暑いですしね、プレッシャーになってしまっては本意ではないので。

ではでは、またのお越しを♪


by シロタ (2010-08-31 18:38) 

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