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「海底八幡宮」「一、二、三、死、今日を生きよう! ー成田参拝ー」笙野頼子 [書籍]

ひところ、えっらいがっついて笙野頼子作品をごりごり読んでたんだけども、頬張ったはいいが飲み下せず消化できず、みたいな感じで呆然と笙野世界に立ち尽くしてしまうのだった。
読むのにすごい集中力が要る、ていうか、集中させられる、強い引力で引きつけられる感じもあって、笙野作品読むときはどっぷりびたびたに笙野読み。他のもの見聞き読みできなくなる。

難しい、難解っていうのとちょっと違う気がする。
とてもよくわかる、感情とか感覚で感じる、筋肉にクる感じで体に響くものがある。むしろすごい力で迫ってくる。
んだけども、なにがどうしてどうなってそのように作用するのかはよくわからない。
ていうかうまく言えない、うまく言おうとするとなんか違うものになって捉えがたい。



「海底八幡宮」

笙野作品いっぱいある中でも、特に印象に残って好きな本。
「人の道御三神といろはにブロガーズ」読むのにもっかい読んでみた。

亜知海(あちめ)ていう海の神様が作中作者・笙野頼子=金比羅のもとに訪れる。
神様って単純に言っていいのかわかんないけども、ある程度こちっと固定された人格でぶつぶつ喋って人間くさい。
この神様は、かつてヤマト朝廷や国家に征服・収奪・徴税された人々の神様であるらしい。
この人々はかつて、ヤマトよりも豊かで拓けて国際的で先進で、何より、空っぽで誰とも取り替えのきく存在ではない私、かけがえのないただ一人の私、苦悩も孤独もすべて負う私(笙野頼子により仏教的自我と名付く)を湛えていて、だからこそ奪われた。
亜知海は、そういう、かけがえのない個人のかけがえのない思いや願いや祈り、苦悩や恨みつらみ、いろんな気持ちが凝ったような存在であるらしい。

その姿、在りよう、イメージの描写がとにかく凄くて魅了される。
映像的というか、視覚的に鮮やかに色やかたちや動きが喚起され、頭ん中に壮麗な竜宮が築かれる。

以下、わたしが感じたイメージ。
海の中、鱗とか鰭とか触手とか海の生き物の特徴がひらひらきらきらして、鮮やかな極彩色の彩りがめくるめく(竜みたいな、ウミウシみたいな姿だそうな)。
それが、色も形も変わり続け、一瞬も止まらないで動き続ける。小さな魚の群が巨大な一体の生き物に見えるみたいな、ああいう動き。
量感、ヴォリュームがたっぷりどっしりぎっしり詰まって膨大な厚み。
色やかたちだけでなくって、そこには深い奥行きのある感情、人の思いや祈りがあって、そのひとりひとりのかけがえなさが損なわれず、全部こめられている。凄い状態。
アンケートみたいな数値に換算されず、省略されず、生のまま、たくさんの人の声が全部聞こえる、響いてくる、ゆらゆらふるえている。
そんな複雑にいくつもの次元が重なり合ったような状態は、映像にも音声にも表せないけれど、言葉なら思い描ける。

で、亜知海のそういう豊かな在りように対して、抑圧・収奪した天孫系の神の描写は機械のプログラムとかシステムの計算式みたいな感じがする。
映画「バイオハザード」の、怪光線で人を刻んじゃう人格プログラムみたいな、ああいう。

ともあれ、亜知海の竜宮の描写だけでも読みごたえがあって、単に読書と言うより、ほんとに海底のお宮へお参りに行くみたいな感じ。
「海底八幡宮」に限らないんだけど、笙野作品は視覚的イメージが豊かで、強力にイメージが喚起される。
視覚的ではあるんだけど、視覚だけじゃなくって、触覚や音や時間や感情や、目に見えないものまで、その揺れ動きも濃く深く伴って、まざまざと感じられるような、まさにあれだ、「絵にも描けない」ってやつ。

「だいにっほん、おんたこめいわく史」の巻末『困惑した読者のための本作取説ーとしての後書 言語にとって、ブスとはなにか』で、

絵画的だけど絵には描けない。(p.217〜218)

言葉の記号性よりも言葉の印象、イメージの世界で新しい面白いコミュニケーションがひろがります。(p.217〜218)

と解説されていて、まさにその効能を絶賛味わい中。




「一、二、三、死、今日を生きよう! ー成田参拝ー」

わたしにとって「海底八幡宮」とセットなのがコレに所収されている「成田参拝」。
表紙の写真からして、一目瞭然のインパクト。神社の鳥居やお社すれすれに低空を飛ぶ飛行機の写真。
テレビか何かで見たことあるけど、空港のすぐ傍、塀で囲まれた土地家屋の画ヅラ、あれって、農家の方がワガママ言って空港の邪魔してるように見えるのね。退ければいいのに、って思えてしまう。
で、まさにそう見えるように印象操作されてるってこと。
無茶理不尽をかましておいて既成事実を言い張り、決まったことなんだからもう仕方ないじゃん、て、じわじわちくちく追い込んでく、最初の無茶理不尽はなかったことにして、抵抗するものの方が無茶理不尽のように思われるように見せる。

沖縄も福島も同じ構図なんだろう。
「長江にいきる 秉愛の物語」の三峡ダム、あの映画でも言われてた。もう決まったことなんだから。

ただ、今ひとつ実感が乏しいのは、わたしにはそういう土地に根ざす感覚が弱いからかなー、とか思う。
わたしには、この土地でなくては、っていう感じがあんまりない。今住んでる土地も気に入ってるけど、対価を示されれば、別にいいっすよ、って移動する気がする。嫌がらせに耐えてまでその土地に暮らそうとはしないかも。たぶん。
生まれ育った石狩にも愛着はあるものの、思い起こせば典型的な新興住宅地(サバービアってやつ?)だった。
だから、どこでも同じじゃん、て思ってしまう。(本当は、画一化されたような住宅地であっても、どこでも同じなわけはないのに)
あと、わたしは笙野さんみたいに賃貸を断られたり「居場所もなかった」思いをしたことがない、ってのもあるかも。
どこでも自由に行けて、自分で選べて、どこでも快適に暮らせるはず、と信じてるようなとこがある。とても傲慢。
そうじゃない、かけがえのない私、が在るように、かけがえのない場所があるんだこともわかるんだけど、まだうっすら、どこでも同じじゃん、が残ってる。
で、そういうふうに思う人こそが、成田や沖縄や全国各地の地上げを黙認し、抵抗する人を押しつぶすんだろう。まったく悪意もなく。退ければいいじゃん、て。

ていうようなことを、地震の被災地や福島や各地の原発に重ね合わせて読んでしまう今日この頃。
IT長者みたいな人がTwitterかなんかでぺろっと言ってた。「原発が嫌なら引っ越せばいい。」
なにその上から目線。ていうだけでなくて、なんだろう絶望的に話が通じない、異生物異星人のようで呆然と気味悪い。



同所収の「一、二、三、死、今日を生きよう!」も、とても印象に残る一遍。
衝撃、っていったら大げさなんだけど、自分が明日も明後日も生きてる保証、根拠なんてまるでなくって、なのにそれを信じていられている不思議、みたいなことを思う。

作中作者、笙野頼子はある日突然「メイニチムイカ」って自分が死ぬことを決定してしまう。そのように信じてしまう、納得してしまう。
すごくおかしな事態なんだけど、でも、ひょっとしたら、明日とか来週も生きてるってことを信じてるのも実はおかしいことなんじゃん。ていう、当たり前のことにびっくり。

死ぬ日であるはずの六日が過ぎても死なず、その後、作者の心の内で起こっていた葛藤、たたかい、心の動きを自己分析する様がすごい。
明治政府ちゃん。の一言でメイニチムイカの呪いが解ける、ていうのもええええーなんかすげえ。

確かに生きているのは今日だけ。今、この瞬間こそ。
ていう、当たり前だけど忘れがちな感覚が鋭く強く刺さってくる。


「人の道御三神といろはにブロガーズ」についても感想を書こうと思ったんだけど力尽きた。ていうかだらだら書き過ぎ。




 






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