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石井ゆかりの12星座シリーズ [書籍]

占いを信じるか信じないか、とか聞かれるとなんか困るんだが、問いへの答えに迷うというよりも、信じるとか信じないとか、そういう問い自体への戸惑いというか。
占いって、信じるとか信じないとかそういうもんなのかな。
信じるか否か、という問いは、占いは当たるのか否か、ってことか。その当たる・当たらないってのもなんか困るかな。
「当たるも八卦当たらぬも八卦」って言うじゃん。当たったり当たんなかったりするよ、そりゃ。

喩えが適当か微妙だけど、天気予報みたいな感じというか。
天気図の概況解説で、どこそこに気圧の谷があってここいらへんに厚い雲があり、その後高気圧が出張ってきやすぜ、みたいなんがあったりするでしょう、あれがホロスコープなりカードの並びなり手相や顔相や四柱推命や姓名の画数なりだったりの、占いの“出た目”にあたるのかな、と。
で、そっから、今日は午前中小雨降ってむわっとするけど午後から晴れてからっとしてくるんじゃないかなー、って読みとったりする訳でしょう。この読みとり方で当たる当たらないは分かれるかも知れない。
それは予報士の読みが当たるか否か、ってことにはなるかもしれないけど、天気予報そのものが当たるか否か、信じるか否か、ってこととは違うと思う。

それに、当たらなかった場合もどうしてどのように当たらなかったのかってことにも意味があるつーか。
当たる・当たらないより、あらわれた目を読み解こうとする態度が重要なんじゃないのかなー。
世の中いつ何が起こるかわからんのであって、そのわからなさを当たる・当たらないにキリキリ押し込めるんじゃなしに、偶然の目に見出そうとする、ある意味、わからなさをおもしろがるようなとこが姿勢として大切なんじゃないかしら。わからないものごとに対する態度というか。
とかマジメぶってみたが、昔から遊び半分の座興みたいなとこもあったらしいし、まあ、座興座興。

とはいえ、座興にかこつけて偏見とかネガティブな思いこみを人に押しつけてこられるのはウザいですな。
いくらそう読んだからって頭ごなしにオマエはこうだ、とか言われたらおもしろくない。


っていうところで、石井ゆかりさんの星占いはウザくなくっておもしろいです。すごく。
読んで嫌な気分になることがない。
この方はTwitterで毎日12星座の占いを呟いておられて、それが滅法おもしろくってですね。→石井ゆかりさんのTwitterアカウント
語彙が豊かというか、表現が豊富でイマジネーションが膨らむ。
比喩のひらめきセンスがユニークで(今日の○○座はふわふわ、みたいなオノマトペだったり、料理だったり、漢字一文字だったり)相当楽しめる。


そんなわけで12星座の各星座ごとに一冊にまとめられたシリーズのうち、自分の星座と夫の分を買ってみました。

これが見事に当たるも八卦当たらぬも八卦な、当たってたり当たってなかったりはするんだけど、ああなんかそういうとこあるかもなー、と思えておもちろかった。
これは当てはまらないだろー、と思われることでも、後にたまたまページを開いて、あれっそういうことか、と思うかも知れない余地が残るっていうか。

上述の豊富な比喩とか、連想されるものや場所や事象を具体的に挙げて並べ、風景を描くようにその星座の世界のイメージを広げていく感じ。
読みに幅があるというか膨らみがあって、自分なりに読み広げていける。

失敗の傾向とかも示されているんだけど、ある局面では長所であることがまずい出方をしてしまう場合、というように書かれているから、人格を否定された印象を受けない。
あ、そのように受け取られることもあるのかー気をつけよう、と思える。

全体に、この星座の人はダメ、とか、人を否定したり貶めて決めつける書き方をしないのね。
なので、読んでて元気になるつーか、特に、これ当てはまるかも、なんていう箇所を読んでると、ものすごく適切に評価してもらえてる気分がして気持ちいい。そうそう、わかってくれてるー、みたいな。

一方で、当てはまらないこともあるよ、とか、占いを盲目的に信じ過ぎたりしないように、的なことも言ってて、そのほどほどな距離感、オカルト走らないところも好感。


ところで、星座占いって一般に太陽星座(生まれた日時に太陽が黄道宮のどこにあったか)でみるけれども、厳密には月星座や水星星座や火星星座などなど星並びの兼ね合いなんかもみるものらしい。
それでみていくとどの星座も自分に関わってくるようで、全12冊読みたくなる罠。
ほかの星座との比較でなるほどーっていうところもあるしね。
いや実際、自分の月星座や他の惑星星座を調べてみたらおもしろくって、えー月星座○○座なのかよーフクザツだけど納得…ぶぶぶ(笑)、てなんかもう笑った。いろんな意味で。


つい占いに興がのって、ひっさしぶりにタロットカードも引っ張りだしてみたりして、タロットもおもしろいよー。









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「海底八幡宮」「一、二、三、死、今日を生きよう! ー成田参拝ー」笙野頼子 [書籍]

ひところ、えっらいがっついて笙野頼子作品をごりごり読んでたんだけども、頬張ったはいいが飲み下せず消化できず、みたいな感じで呆然と笙野世界に立ち尽くしてしまうのだった。
読むのにすごい集中力が要る、ていうか、集中させられる、強い引力で引きつけられる感じもあって、笙野作品読むときはどっぷりびたびたに笙野読み。他のもの見聞き読みできなくなる。

難しい、難解っていうのとちょっと違う気がする。
とてもよくわかる、感情とか感覚で感じる、筋肉にクる感じで体に響くものがある。むしろすごい力で迫ってくる。
んだけども、なにがどうしてどうなってそのように作用するのかはよくわからない。
ていうかうまく言えない、うまく言おうとするとなんか違うものになって捉えがたい。



「海底八幡宮」

笙野作品いっぱいある中でも、特に印象に残って好きな本。
「人の道御三神といろはにブロガーズ」読むのにもっかい読んでみた。

亜知海(あちめ)ていう海の神様が作中作者・笙野頼子=金比羅のもとに訪れる。
神様って単純に言っていいのかわかんないけども、ある程度こちっと固定された人格でぶつぶつ喋って人間くさい。
この神様は、かつてヤマト朝廷や国家に征服・収奪・徴税された人々の神様であるらしい。
この人々はかつて、ヤマトよりも豊かで拓けて国際的で先進で、何より、空っぽで誰とも取り替えのきく存在ではない私、かけがえのないただ一人の私、苦悩も孤独もすべて負う私(笙野頼子により仏教的自我と名付く)を湛えていて、だからこそ奪われた。
亜知海は、そういう、かけがえのない個人のかけがえのない思いや願いや祈り、苦悩や恨みつらみ、いろんな気持ちが凝ったような存在であるらしい。

その姿、在りよう、イメージの描写がとにかく凄くて魅了される。
映像的というか、視覚的に鮮やかに色やかたちや動きが喚起され、頭ん中に壮麗な竜宮が築かれる。

以下、わたしが感じたイメージ。
海の中、鱗とか鰭とか触手とか海の生き物の特徴がひらひらきらきらして、鮮やかな極彩色の彩りがめくるめく(竜みたいな、ウミウシみたいな姿だそうな)。
それが、色も形も変わり続け、一瞬も止まらないで動き続ける。小さな魚の群が巨大な一体の生き物に見えるみたいな、ああいう動き。
量感、ヴォリュームがたっぷりどっしりぎっしり詰まって膨大な厚み。
色やかたちだけでなくって、そこには深い奥行きのある感情、人の思いや祈りがあって、そのひとりひとりのかけがえなさが損なわれず、全部こめられている。凄い状態。
アンケートみたいな数値に換算されず、省略されず、生のまま、たくさんの人の声が全部聞こえる、響いてくる、ゆらゆらふるえている。
そんな複雑にいくつもの次元が重なり合ったような状態は、映像にも音声にも表せないけれど、言葉なら思い描ける。

で、亜知海のそういう豊かな在りように対して、抑圧・収奪した天孫系の神の描写は機械のプログラムとかシステムの計算式みたいな感じがする。
映画「バイオハザード」の、怪光線で人を刻んじゃう人格プログラムみたいな、ああいう。

ともあれ、亜知海の竜宮の描写だけでも読みごたえがあって、単に読書と言うより、ほんとに海底のお宮へお参りに行くみたいな感じ。
「海底八幡宮」に限らないんだけど、笙野作品は視覚的イメージが豊かで、強力にイメージが喚起される。
視覚的ではあるんだけど、視覚だけじゃなくって、触覚や音や時間や感情や、目に見えないものまで、その揺れ動きも濃く深く伴って、まざまざと感じられるような、まさにあれだ、「絵にも描けない」ってやつ。

「だいにっほん、おんたこめいわく史」の巻末『困惑した読者のための本作取説ーとしての後書 言語にとって、ブスとはなにか』で、

絵画的だけど絵には描けない。(p.217〜218)

言葉の記号性よりも言葉の印象、イメージの世界で新しい面白いコミュニケーションがひろがります。(p.217〜218)

と解説されていて、まさにその効能を絶賛味わい中。




「一、二、三、死、今日を生きよう! ー成田参拝ー」

わたしにとって「海底八幡宮」とセットなのがコレに所収されている「成田参拝」。
表紙の写真からして、一目瞭然のインパクト。神社の鳥居やお社すれすれに低空を飛ぶ飛行機の写真。
テレビか何かで見たことあるけど、空港のすぐ傍、塀で囲まれた土地家屋の画ヅラ、あれって、農家の方がワガママ言って空港の邪魔してるように見えるのね。退ければいいのに、って思えてしまう。
で、まさにそう見えるように印象操作されてるってこと。
無茶理不尽をかましておいて既成事実を言い張り、決まったことなんだからもう仕方ないじゃん、て、じわじわちくちく追い込んでく、最初の無茶理不尽はなかったことにして、抵抗するものの方が無茶理不尽のように思われるように見せる。

沖縄も福島も同じ構図なんだろう。
「長江にいきる 秉愛の物語」の三峡ダム、あの映画でも言われてた。もう決まったことなんだから。

ただ、今ひとつ実感が乏しいのは、わたしにはそういう土地に根ざす感覚が弱いからかなー、とか思う。
わたしには、この土地でなくては、っていう感じがあんまりない。今住んでる土地も気に入ってるけど、対価を示されれば、別にいいっすよ、って移動する気がする。嫌がらせに耐えてまでその土地に暮らそうとはしないかも。たぶん。
生まれ育った石狩にも愛着はあるものの、思い起こせば典型的な新興住宅地(サバービアってやつ?)だった。
だから、どこでも同じじゃん、て思ってしまう。(本当は、画一化されたような住宅地であっても、どこでも同じなわけはないのに)
あと、わたしは笙野さんみたいに賃貸を断られたり「居場所もなかった」思いをしたことがない、ってのもあるかも。
どこでも自由に行けて、自分で選べて、どこでも快適に暮らせるはず、と信じてるようなとこがある。とても傲慢。
そうじゃない、かけがえのない私、が在るように、かけがえのない場所があるんだこともわかるんだけど、まだうっすら、どこでも同じじゃん、が残ってる。
で、そういうふうに思う人こそが、成田や沖縄や全国各地の地上げを黙認し、抵抗する人を押しつぶすんだろう。まったく悪意もなく。退ければいいじゃん、て。

ていうようなことを、地震の被災地や福島や各地の原発に重ね合わせて読んでしまう今日この頃。
IT長者みたいな人がTwitterかなんかでぺろっと言ってた。「原発が嫌なら引っ越せばいい。」
なにその上から目線。ていうだけでなくて、なんだろう絶望的に話が通じない、異生物異星人のようで呆然と気味悪い。



同所収の「一、二、三、死、今日を生きよう!」も、とても印象に残る一遍。
衝撃、っていったら大げさなんだけど、自分が明日も明後日も生きてる保証、根拠なんてまるでなくって、なのにそれを信じていられている不思議、みたいなことを思う。

作中作者、笙野頼子はある日突然「メイニチムイカ」って自分が死ぬことを決定してしまう。そのように信じてしまう、納得してしまう。
すごくおかしな事態なんだけど、でも、ひょっとしたら、明日とか来週も生きてるってことを信じてるのも実はおかしいことなんじゃん。ていう、当たり前のことにびっくり。

死ぬ日であるはずの六日が過ぎても死なず、その後、作者の心の内で起こっていた葛藤、たたかい、心の動きを自己分析する様がすごい。
明治政府ちゃん。の一言でメイニチムイカの呪いが解ける、ていうのもええええーなんかすげえ。

確かに生きているのは今日だけ。今、この瞬間こそ。
ていう、当たり前だけど忘れがちな感覚が鋭く強く刺さってくる。


「人の道御三神といろはにブロガーズ」についても感想を書こうと思ったんだけど力尽きた。ていうかだらだら書き過ぎ。




 






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「薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木」江國香織 [書籍]

最近、江國香織「きらきらひかる」の記事へのアクセスが多くてビビリ気味です。なにこれなにこれ。なんか話題になったりしてんでしょうか、江國さん。

江國香織の小説は、オシャレでステキげな物品や事象にあふれ、華奢で甘やかな雰囲気についさくさく読まされてしまうけれども、実はすげーヤバいもんなんじゃなかろうか、と思ってるわけなんだが、「薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木」はその中でも一番堪える感じでヤバい。
病んだ健やかさ、明晰な曖昧、清明な曇り、正しい誤り、みたいなヘンな形容がうっかり成り立ってしまうような、そういうのが不思議に思えなくなるような感じがして、で、そんなんなったらまともな社会生活が送れなくなってしまう。そういう、ヤバさ。

特に主人公的な中心人物がある訳ではなくって、視点が特定の誰かに定まらないまま、状況が進む。
どこんちも、なんか歪んで曇った部分があって、それをなにかで誤魔化して生ぬるく過ごしていたり、或いは離婚に至ったりする。
どの夫婦にも共感できないし、誰にも感情移入できなくって、でも、ダメ人間と切って捨てるにも至らない。
オマエらもっとちゃんとしろよ、と説教したくなるような親(ちか)しさを感じるわけでもなく、だからって物見高い見物気分で眺めていられるほどどうでもよくもない。
いや、共感や感情移入できないっていうのは正確ではないかも。
場面場面で、気持ちはわかる、同情や納得したりもするんだけど、それが一貫して特定の人物に沿うものではない。
で、劇的なお話の盛り上がりがある訳でもなく、問題が解決したり何かしらのオチがある訳でもなく、日々は過ぎ行く。みたいな。

何がヤバいかっていうと、
―みんなどうして結婚と幸せを結びつけたがるのかしら。(p.217)
とか、そういうことかな。
これだけではなく、結婚とか夫婦とか(もっと言えば社会の構成員として所属して生活すること全般、かな)に対するとりとめない「?」がさりげなく据え付けられてる。気にしないでするっと読み流してしまえるんだけど、あとで「?」ってなる。
で、大抵の場合、疑問が発せられる際にはもうそこに解答が内包されているもんだと思うんだけど、その「?」に対する解答は全然示されなくってうろたえる。
また、それらの「?」が集積して、そもそも結婚てナニ? と、ものすごく素朴ながら絶大な懐疑を抱いてしまう、とかさ。

恋愛と結婚の関係なさってのも、なんか改めて、ぎょえー、とか思う。
別に恋愛によって結婚が維持されなくても、互いに大切に思いあって共に家族を営む意思を共有できれば恋愛じゃなくっても構わないとは思うけど、それにしても関係ないものよなあ、と。
関係なさっていうか、むしろ正反対かもしれないくらい。
そもそも恋愛って、相手だけしか見えない、自分すら居なくなってまさにオンリーユーな気持ちの動きだったりする訳で、それって実は反社会的だ。
本当の本当にふたりっきりになりたい、世界が滅んでこの世に自分と相手だけふたりきりで取り残されたい、とか、そういう気持ちを本気で貫いたら世界を消すかふたりで死ぬかに行き着いちゃうような気がする。

登場人物の誰もがごく普通にどこにでも居るような人たちで、特別に悪でも愚かでもない。
そういう、普通な人たちの営む普通の結婚・夫婦ってことに、こんな歪な陰が含有されている。

なんちて。
ものごとを疑ってみるのは悪いことではないと思うけど、疑いすぎると生活していけないよな。








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「俺俺」星野智幸 [書籍]

タイトルがセンスいい。“オレオレ詐欺”と“我々”ていう語を想起させられる。

主人公の「俺」はちょっとしたきっかけで他人になりすます。
ところが、なりすまして偽ったはずの他人が、実は「俺」本人であって、え、じゃあその前「俺」だと思ってた俺はいったい誰なんだ? と、実家に帰ってみると、そこにはなんともうひとりの「俺」が居る。お前は俺だよな、俺も俺だ、って俺同士の珍妙な会話。
自分が自分であることがあやふやになってゆく様に巻き込まれるように読まされる。

「自分が自分であること」なんて当たり前だと思っててろくに考えやしないけど、考えてみると不思議だ。何故に俺は俺であってあなたではないのか。てなことに思い至らされ、うっかり考えてしまう読者もまた one of「俺俺」。
個々人の記憶もとっちらかって曖昧に、自我が融解してしまう様が、読み手にも及ぶ。てか、その巻き込まれ感がキモなのかも。
自我の融解、とかいうとエヴァンゲリオンの人類補完計画みたいな感じも思い浮かんだりして。


「俺」に出会った「俺」は、最初は、互いの理解が容易であることに安堵と開放感を覚えるのだけど、徐々に「俺」に閉塞してゆく。どこに行っても「俺」に出会う。
愉快でいい奴の「俺」だけではなく、認めたくない、受け容れられない卑劣で小心で醜い「俺」にも否応なく出会い、認めがたくても「俺」であることは明白に否応なく認めざるを得ない。
「俺」を保つのが困難になり、だからといって「俺」を降りるわけにもいかず、降りるとしたら死ぬか「俺」以外を殺すか。
互いに見張りあい、わずかな差異に敏感になり、少しでも隙があれば削除される。

そういう「俺俺」状態のキモさヤバさ怖さは中盤の高尾行きの列車の中の描写に極まる。
車両全部、ぎっしり「俺」が乗ってる。「俺」だらけ。耐え切れなくなりそうなヘンな緊張の高まりの中、「俺」じゃない者、他者が乗車してくる。
このときの、「俺」らのその緊張が、異様で過剰な関心となって他者に集中し、それが攻撃に転じ、他者を殺す、そのさま。

このさまが、今現代の日本の社会の様相を呈しているようで超キモい。心底キモい。
空気を読み、皆に合わせて同じように振舞うべきとされていて、けれども個人の内面を圧殺して“皆”に合わせることは大変な苦痛である。苦痛なら合わせなきゃいいのに、それを止めると徹底的に攻撃される。
皆=俺なので、皆に合わせないということは俺を否定することを意味する。皆=俺という自己同一性を保てなくなる恐怖が攻撃に転じるので、それはもう過激で過剰で執拗な攻撃になる。でもって、俺が苦痛に耐えているというのに、それに耐えない&耐えられないとはけしからん、許せん、みたいな逆恨み嫉み僻み。
また、攻撃は、わかりやすい差異を有する他者、例えば朝鮮学校などに向かう。在日コリアンはその出自を変えることなんかできないのに、その在日コリアンであること自体を攻撃する。その差異が決定的で明白であるからこそ、安心して心置きなく叩きまくる。俺じゃないやつを叩くことで俺を補強する、脆弱な自我。
誰にでもそういう心性はあるものだろうけれど、それを許さないのがモラルとか倫理道徳、もっと言えば正義ってことなんじゃないんですかね。
俺が俺だけの俺しか居ない俺であることはとても孤独なことだけれど、その孤独に耐えなければ「俺俺」の閉塞に陥ることであるよ。

後半、「俺俺」はその絶対的な孤独を経て、かけがえのない「俺」とかけがえのない他者に至る。
読んでる間は後半のこのくだりは駆け足っぽいつか、付け足しっぽい気もしてしまって、「俺俺」が閉塞して自滅する悲惨な末路、で締めちゃえばいいのに、とか思ったりもしたんだけど、読了後、ううむでもこの終盤の絶対的「俺」の孤独の描写はとても誠実だなあ、と思った。

そして、かけがえのない他者に出会うことのかけがえのなさ。正しさ。
ここんとこにグッとコれるとよかったんだろうけど、結論が性急過ぎる感もあり、どうにも現状のきなくさい「俺俺」社会の気持ち悪さに希望など見出し得ずにいる心象が影響してか、あんましコなかったのでした。残念。







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「ダーク・エイジ」那州雪絵 [書籍]

「カラフル」の主人公少年のしんどさ全開な鬱鬱っぷりを観たら、コレを思い出した。

‘93年(雑誌掲載時は’91年)に発行されたちーと古い漫画どす。「フラワー・デストロイヤー」ていう、前日譚にあたるお話を読んでからのほうが飲み込みはいいんだけども、ていうか、現在入手しやすい白泉社文庫版「フラワー・デストロイヤー」にはシリーズ全話所収されているのでそっちが手っ取り早い。
この方の著作としては「ここはグリーン・ウッド」が有名どころですかね。現在ももりもり活躍してらっさるようです。「魔法使いの娘 」まだ読んでない。読みたいなー。

主人公のフツーの高校生・高西智恵は、未来からやってきたデストロイヤーと呼ばれる花に接触して念動力が使えるようになる。
デストロイヤーは接触した人間に超能力を発現させる性質があるけれど、一方で精神的な異常や不安定に陥ることが多く、大変キケンなシロモノ。智恵は能力を発現したものの例外的に落ち着いた精神状態を保てている特異例。
で、そういうヤバい花と花関連のトラブル処理のために未来からやってきたタイムパトロールの所属下で手伝いをさせられる智恵たち高校生のあれやこれや、ていうお話。

ちょうどリアルタイムに読んでたせいもあって、この高校生たちの描写に異様に共感。うんうん、そうそう、そうだったそうだった。
毎日フツーに学校行って授業受けて、放課後だべってみたりバイトしてみたり、受験とか進路とかに煩わされてみたり。そうやってフツーな日常を過ごしながら、なんだかよくわからないけれど、不安というか恐れというか、それぞれがなんともいえないもの思いを抱える。未来とか社会とか、いずれそこに出て行かなくてはならない世界が待ち構えていることに対する、なんともいえないざわざわもやもや感。
真面目な優等生・鳥井さんの心象を除けば、そんなに深刻で重い描写じゃないんだけど、ふとしたときに疑問や躊躇いを感じたり、なんとなく常につきまとう感じがすっごいクる。
時折ちょっと説明的な部分もなきにしもあらず、なんだけど、そういうもやっとした感覚にすごく誠実に向き合ってる感じ。

デストロイヤーに関わるトラブルが起こって、その解決に奔走する中で、智恵は、鳥井さんの心象を通じて、将来に対する不安とか恐れとかそういうものに正面から向かい合う。
この鳥井さんの心象が、もう重い重い。真っ暗。悲しいことや恐ろしいことばかり、何もいいこと起こらなそう。でもねえ、その頃のニュースとかマスメディアの報道見てたら暗くしかなんないつーの。チェルノブイリ、湾岸戦争、油まみれの鳥。

実は、タイトルの「ダーク・エイジ」は、10代半ばあたりの難しいお年頃、所謂思春期のことを指す。
たぶん文庫版には所収されていないであろうコミックス版1/4スペースの作者コメント↓

「DARK AGE」というのは、「暗黒時代」という意味です。 わりと一般的には、子供の頃、とか、少年時代、青春時代とかいわれる時期には楽しいことばかりがあって希望に満ちていてみんなケガレなく元気で怖いものなどなく、大人になってからふとふりかえって「あぁ、あの頃は楽しかったなぁ…」などと思うものらしいのですが、私は全然そう思っていないので、このように呼んでみました。
だから今、ツラく苦しい少年期をすごしている皆さん、安心してください。大人になったら今よりずっと楽に生活することができます。私も昔、子供だった頃、あんまり毎日ツラいので、「世間では一番いい季節とされている今がこんなにツラいのだから、大人になったら毎日どんなに苦しいだろう」と悲嘆しておりましたが、いざ大人になってみたらゼンゼンそんなことはありませんでした。だから、あなたの一番おいしい時期は、この先に待っているのだから、もうちょっとガマンしてがんばってね。(p.155)

ていうか、なにこのバカ正直(笑)
こういうコメントに、この作家の誠実さが顕れていて、この人は信頼できる大人だ、と思ったものでした。

まあ、大人として付け加えるならば、世間は甘くない、とか、社会は厳しいのだ、とか、世界はコワいんだぞとやたらに言い募る大人は、自分のラクや得を守るために誰かに苦しんでいてもらいたい人です。で、そやって子どもを脅しつけて、だからそーいう世間でやってくためには俺の言うこと聞けよ、って支配したがる人だったりするんで、疑ってかかったほうがよいかもよ、と言っときます。
死ぬ気になればなんでもできる、頑張れ、というのも嘘です。死ぬ気になったら死ぬことしかできないつーの。

大人になって楽になるかどうかはともかく、10代半ば頃が相当苦しい時期であるのは確かなのでね。なんとか、騙し騙ししのぐのが吉じゃないすかね。

「ダーク・エイジ」を今の中高生が読んでピンとくるかどうか知らないけど、まあこういう命綱みたいなものは幾つか持っておくに越したことないので。
しんどいときにはお試しあれ。ってか中高生がこんなブログ読んでるとも思えんが、一応。


このお話の最後のページ、p.166。


厚い雲の海を通りぬけるように

不安と
疑いと
戸惑いと
恐れと

無知や盲信に
別れを告げて

私たちは間もなく
暗黒時代を終えるのだ




 


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「子どもの貧困」阿部彩 [書籍]

ちょっと前の記事なんだけども、以下の記事をきっかけに読んでみたのでした。

「I'll be here−社労士 李怜香(いー・よんひゃん)の多事多端な日常」:「自己責任教の影-『子供の貧困』」


厚生労働省の国民生活基礎調査や、経済協力開発機構(OECD)の統計調査などの数値をもとに、日本の子どもの貧困の状態が分析される。
指摘される問題点としては、貧困は連鎖する傾向があること、政府の対策が機能していないこと、母子世帯が突出してハンパなく困窮していること、世論として最低限子どもが保障されるべきと考えられている物品や生活レベルがえらく低いこと、などがグラフや表に挙げて示されている。


上記のブログ記事でも触れられているけど、やっぱりびっくりするのはコレ。

貧困率.jpg
図3-4は、先進諸国に置ける子どもの貧困率を、「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかもしれない。再分配前所得に置ける貧困率と再分配後の貧困率の差が、政府による「貧困削減」の効果を表す。(p.95~96)

日本だけ、再分配後のほうが貧困率が増してるっていう。
政府の施策によって、そもそもあんまし困ってなかった人まで貧困に至り、困窮してる人がより厳しく困窮するっていう無茶苦茶。


母子世帯の困窮について割かれた章はツラい。
雇用情勢の悪化、特に女性の就労の厳しさをモロにくらって、とにかく経済的自立が困難。
’93年から’06年にかけての就労状況のグラフを見ても、常用雇用が減って臨時・パート、派遣、不就業が目に見えて増えてて、収入も減ってる。
で、無理してパートやバイト複数かけもちで働いて健康を害したり、そうすっと働けなくなってさらに困窮極まる。
この章では、母子家庭の母親を対象とするアンケート調査の自由記述欄の回答がいくつか紹介されていて、その困窮具合、先行きの見えない不安が伝わってきて、読んでてしんどい。


p.186~187の、“子どもに関する社会的必需品”の表も、なんだかなあ。
「朝ごはん」「(希望すれば)高校・専門学校までの教育」など、物品や経験の項目が26あって、それぞれについて、「与えられるべき」「与えられたほうが望ましいが、家の事情(金銭的など)で与えられなくてもしかたがない」「与えられなくてもよい」「わからない」の選択肢で回答するアンケート。これによって最低限こんくらいは与えられるべき、と考えられる“こんくらい”の支持率が顕われる。
で、その“こんくらい”のレベルが日本はイギリスと比べて厳しめなのだけど、何よりわたしが感じる“こんくらい”から見て、冷てえなあ、と思った次第。
そのへんは人それぞれで感覚が違うものではあるだろうけど、大抵の親は、子どもに美味いもの食わしてやりたい、とか、存分に勉強させてやりたい、やりたいことをやらせてやりたいと思ってて、で、もしそれが親の事情で与えてやれなかったとしたら非常につらい思いをする訳でしょう。
「与えられなくてもしかたがない」っていう項目は、そういうつらさのパーセンテージだったりもする訳じゃないすか。
ていうか親でなくっても、すべての子どもに「病院に行く」「歯医者に行く」くらい与えられるべきじゃね?と思うんだけど「与えられなくてもしかたがない」が11パーセントにも至ったり、「学校給食」が「与えられなくてもしかたがない」16パーセントだったりっていう数値に、冷たいよなあ、と感じる訳なのです。わたしは。
つかさあ、「誕生日のお祝い」とか「お古でない靴」くらい与えられてもよくね?


この書籍では子どもの貧困をとりあげているけれども、著者は子ども以外の貧困(例えば高齢者やホームレスや若年層の不安定雇用)に関しても深刻な問題ととらえている。
そんな中で、敢えて子どもの貧困に焦点を絞って問題提起する意図としては、貧困対策を提唱する際に常に生じる「自己責任論」との緊張が、子どもの貧困に特化すれば、それほど強く生じないからである。(p.247)と、あとがきで述べられている。

つまり、貧困問題はそれっくらい「自己責任」で片付けられることが多いってことなんだろう。

この書籍を読む前から、日本は弱者にひどく冷たい社会なんじゃないのかなあ、と感じることがままあった訳なのだが、読後はさらにつくづくと強く感じる。
弱者、とか言うとそれだけで、努力せずに文句ばっかり言う輩、被害者ぶってる的な捉えがなされたりとか。
そんな空気のなかでは、援助を訴えることも躊躇わされる。
個人の努力では如何ともしがたいことはいくらもあって、いつ自分が同様の状況に陥るかもわからないってことに、想像が及ばないんだろうか。

わたしはそれがすごく怖い。
最近は、おろし金でごーりごーり削られる痛みのように感じられたりするほどに。






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「金魚のうろこ」田辺聖子&鴨居まさね [書籍]

正直言うと、田辺聖子は苦手なのでした。
関西弁のやわらかな響きと相まって、「そない肩肘はらんとエエやないの」的なしなやかさしたたかさに圧倒されるというか、柔らかく気圧される。
なんつーかな、「まあまあ」って宥められてる感じがするっていうか。
しかも、その「まあまあ」がひじょーに的確にツボを圧してて、「そう言われてみればそうかも」的にうまいこと納得させられる感じの負け感。勝ち負けで言ったら負けなんだけど、そもそも勝ち負けなんかどうでもええやん、ていう感じのしなやかさ。
それが非常に快く、同時に悔しい。

一方、鴨居まさねは好きな漫画家で、特に近年の「雲の上のキスケさん」「君の天井は僕の床」あたりの脂の抜け具合、イイ感じの枯れ方が大変好ましい。
絵柄がまた、余計な力が入ってないふわーっとした軽やかな抜けがあってイイ。気負ったところがない。でも、基本のデッサン力がしっかりしてて、押さえるべきところはしっかり押さえてある。
少女マンガ的なお花満開ロマンティック全開の盛り上がりに、非常に敏感に照れ恥じてみたりする感じの、その照れ恥じツボが、わかる!賛同!激しく同意!的にビタ好み。


といったところで、田辺聖子原作+鴨居まさね漫画、の塩梅はというと、すっごくいいんじゃないかと思う。足し算じゃなくってかけ算かもしれない。
小説が漫画化されるのって、あんまり成功した例を知らないし、それぞれの作家の世界が際立って成立しているほど難しくなりそうなんだけど、コレはいい。

どっからどーみても田辺聖子のお話なんだけど、鴨居まさねが捩じ伏せられてる訳ではなく鴨居なりのイマジネーションで世界をつくってて、これまたどっからどーみても、しっかりはっきり鴨居漫画なんだよね。
んで、お互いの個性が潰しあう事なく引き立てあってて、これ、漫画化によって損なった部分はいっさいないんじゃないかとさえ思える。この熟(こな)れ具合は凄いです。
田辺ファンも鴨居ファンも両方楽しめる。

もひとつ田辺の、明け透けな物言いとか身もフタもない逸話みたいなん(「ぴろぴろ」とか「せえへん仲間」とかの言い回しなど)も苦手だったりするんだけど、これもまた鴨居で中和されたりせず、むしろ増幅されてて、やっぱり苦手なまんま(笑)。
『達人大勝負』なんかお話自体が身もフタもない。ていうかよくこの話を漫画化原作に選んだものだのー。
明け透けで身もフタもないんだけど、ヘンな露悪ではなく下品でも卑しくもなく、軽やかにお話の必然として味わいを醸しているんだろうとは思う。
ていうか、そういう感じが苦手って言うのは、関西文化圏の壁を感じるのな。東西では人との距離の取り方が違う、って聞いた事あるけど、どっちかつーと東側なわたしにとっては近過ぎるのかもしんない。


シリーズ2段として「鏡をみてはいけません」があって、これも良。





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「きらきらひかる」江國香織 [書籍]

江國香織は、正直言うと、“スイーツ(笑)”で片付けたいところなんだが、そうもいかないところが恥ずかし悔しい。
ていうかねえ、甘くて華奢な文章とか、オシャレでスノッブな趣味満載とかについ油断させられるけど、この人の書く話って基本的にアナーキーだと思うのな。

この人がブレイクしたきっかけの「きらきらひかる」は、ゲイセクシャルの夫・睦月とアル中気味で情緒不安定の妻・笑子との結婚生活っていうお話。

睦月も笑子も、睦月の恋人・紺もそれぞれフリーダムなんだけど、三人ともなにかしら自分の正義とか良心とか倫理みたいなものを貫き通している。貫こうとしてる。
だから我が儘とか手前勝手な無茶苦茶さではないんだけど、三人の姿は他愛なく、あやうく儚げにうつる。彼らのフリーダムがそれこそ他愛なくどうでもいいようなものとして抑圧される気配があるから。

両親たちや、笑子の親友の瑞穂とか、所謂“まっとうでフツーな”人たちの描かれ方が凄い。睦月笑子にまったく理解を示さず、きっぱり善意で悪意はさらさらなく、無自覚に暴力的な言動で「フツーになれ」と主人公夫婦を追いつめる、そのヘルシーさの気持ち悪いこと暴虐なこと。

瑞穂の台詞、
「子供つくればおちつくって。(後略)」(p.79)
「いつまでも情緒不安定じゃおばさんたちが安心できないし、睦月さんだってかわいそうよ」(p.79)
「何のために結婚したの」(p.79)

睦月の母親の台詞、
「相談してみたらどう、人工授精のこと」(p.28)←この時点で、結婚してまだひと月足らず。
健康な女性なら当然考えることなのに。(p.29)
「あなたが笑子さんから女の幸福をとりあげてるんだと思うと、お母さん辛いのよ」(p.91)

キショっ。キショいよ。
まあこれがキショくない人は江國を“スイーツ(笑)”って馬鹿にできるんだろうけど。

他の作品に比べると「きらきら…」は、かなり毛を逆立てて抵抗してるというか、過ぎるくらいに真っ正直な、意固地な頑張りがあるように思える。
「ホリー・ガーデン」の果歩ちゃんも相当意固地だけどね。


恥ずかし悔しがりながら江國を読むのは、こういうアナーキーさに感じ入るところがあるから、なのかなーと自己分析。
まあアナーキズムってほど大げさなことではなくっても、どこかうまく世界に馴染めなくて、抑圧を感じている人々の視点があって、で、その人たちの意固地や不器用さみたいなものが好きなようです。






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「虐殺器官」伊藤計劃 [書籍]

なんか想像してたのと全然違ってた。
語り役の主人公がアメリカの軍人、しかもタイトルに虐殺なんて物騒な文言があるもので、ドンパチサバイバルな所謂戦争もの(含、体育会系な兵士の友情物語)、とか、政治に翻弄される末端の人員の悲劇、とか、なんにしてもドカーンとかうわーっとか派手な高揚に満ち満ちて悲憤慷慨すんのかと思ってた。

全然違ってて、むしろとても静か。
無惨に人が殺される場面や戦闘アクションなどの描写もあるんだけど、そういった場面の印象こそ静か。躍動感や臨場感に欠けるとかそういうことではなくって、冷静に理性的に行動する主人公の、酷いことを酷いと感じない酷さ、みたいなこと。
それは、戦闘に臨んで人殺しを躊躇しないために感情調整を施しているという設定だから、ていうこともあるんだけど、そういう鈍感さを主体的に選び取っている心算で、実は選ばされているのかも知れない、っていう不気味さ、違和感でもあろうかと。

 お前が殺したのだ、と誰かに言ってほしい。
 (略)誰かに、これは本物の罪で、本物の殺意だと言ってほしい。戦場で自分が感じたぎりぎりの感覚。銃弾飛び交うなかで発せられる、自分はいまここに存在しているという声なき叫び。それらが偽物ではないと誰かに教えてほしい。 p.268

対照的に、佐藤亜紀「戦争の法」(文春文庫)の主人公の明晰な語りを思い出した。

「戦争をやっている最中にだって、僕にはやっていいことと悪いことの区別くらい付きました。(略)戦争だからと言って人を殺していい理由にはならない。(略)悪いと知っていて殺したのです。それが戦争ですよ」p.381〜382

「(略)僕は戦争中のことを疾しく思わなければならないんです。(略)」p.382


近未来の主人公の違和感はまんま現代に生きるわたし(たち)の抱える違和感であって、全編に充満する、“なんか違う”“なんか誤魔化してる、誤魔化されてる”っていう感じが非常にリアルに堪える。皮膚にクる。

世界の欺瞞に気づこうと思えば気づけるはず。気づかない=気づこうとしないのは、気づいたら嫌なものを見て傷ついたり困難なことに立ち向かわなければならなくなるから。怠惰だから。
わたしはただ怠惰なだけで、だからそのことに罪悪感を覚えている。
…って思ってるようなことは、既に世界の欺瞞の一部を成している。気づこうとしないように、欺瞞を補強するように振舞うように選ばされ、どうしてそんな欺瞞に落とし込まれているのかってことは、周到に隠されている。見えなくなってる。
実は、本当は、気づけやしないのかもしれない。気づかないうちに行動させられているのかもしれない。罪悪感すら、気づくのを妨げる安全弁かもしれない。っていう不気味さ。


あまりに思い当たってぎょっとした箇所。

「仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。仕事だから、ナチはユダヤ人をガス室に送れた。仕事だから、東ドイツの国境警備隊は西への脱走者を射殺することができた。仕事だから、仕事だから。兵士や親衛隊である必要はない。すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。…(後略)」p.310

「仕事だから仕方がない」っていう言辞に対しては、瞬間湯沸かし器的に即時逆上してしまう訳なんだが、こんなところでこんなふうに結びつくとは思わなかった。

なにも軍人に限ったことではなく。仕事の内容に限らず。
鎖で繋がれて鞭打たれてる訳でもないのに、一日の大部分の時間を割いて自発的に就業する仕組みを、信じ過ぎてやしないか、ということ。それは、成果をあげるためなら、ときに個人的感情も倫理も道徳も投げうって業務に就かざるを得ないと思わせる仕組みでもあり。
さらに、仕事に対して賃金のみならず、やりがいや自己実現まで求めようとする、あるいは求めるべきである、という考え方が、個人の内面まで仕事に従属させ支配しようとすること。
笙野頼子が“おんたこ”と名づけて表わした、個人ひとりひとりが自分で感じたり考えたりしないように仕向ける仕組み/制度にも通じるのかもしれない、などと思った。


読む前に作者の生年を知っちゃったせいなのかもしれないけど、ばりばり同世代な感覚が端々に感じられて、妙に“そうそう”とか“あるある”的な感じに悶えた。
しかもこの人、同窓なんだよなー。絶対どっかですれ違ったりしてる、とか思うと、ものすごく勝手ながら、たまに話をする友人がその話をネタに小説書いた、みたいな親近感を感じてしまって、我ながら図々し過ぎる。
けど、そんなふうに思ってる人多い気がする。それっくらい身近で親近なお話だから。

あわせて佐藤亜紀のエッセイ「あまりにもいい加減でだらしなく出鱈目な」を読むと、さらにクる。



 

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「歌う船」アン・マキャフリー [書籍]

「攻殻機動隊」絡みで思い出した。15、6年前くらい、学生のころに面白がって読んでたSF小説。手元にある版は’95年3月発行の10刷、結構な増刷ぶりじゃのー。
初版は'84年、アメリカで発表されたのは'60年代、まさにSF勃興まっ盛りの頃なんじゃないですかね。この頃って本当にサイボーグとか宇宙船とかSFな設定や道具立てのアイディアが盛りだくさんに溢れてたんだなー。

主人公のヘルヴァは先天的な事由でそのままでは生存に適さない身体だったため、生命維持装置の整った金属の殻で覆われた「殻人(シェルパーソン)」として育つ。神経は入出力系それぞれの端末に接続され、目や耳の代わりにセンサーで知覚し、手足の代わりに車輪とか伸縮アームとかを動かして活動すんのね。
で、ある程度の年齢に至ったらそれぞれの特性を生かせるボディに移設されるんだけど、ヘルヴァの場合は宇宙船仕様で、通称「頭脳船(ブレインシップ)」と呼ばれるサイボーグ船として活躍する。腕を動かすみたいにエアロックやタラップを動かし、飛んだりはねたりする感覚でエンジンを始動させて発着場から離陸する。

ヘルヴァはちっさいころから歌が得意で、船になってからも「歌う船」として名を馳せる(なにしろ視覚も聴覚もヒトの可視聴域を軽く超えてて、殻人ならではの可視聴域に適した絵画や音楽といった殻人芸術みたいなものまである)。

おもしろいのはヘルヴァを含め、殻人(シェルパーソン)たちが、生身の身体でないことにちっとも引け目を感じていないこと。
地面をてくてく歩けないからってかわいそうがられる筋合いはないつーの、こちとら宇宙飛べますから、的な。
ときに非殻人(ソフトパーソン)のことを「へろ殻」とからかったりもするくらい、殻人万歳、船ボディの自分が大好き。それっくらい適応してる。殻人の人権団体まであったりする設定なんか、すんごくアメリカっぽい(笑)。

設定そのもののおもしろさやSF的未来的道具立てを、ほくほく楽しんでたんだけど、それだけではなくって、この「歌う船」の場合、少女漫画的におもしろい。

ちびの頃から無性のメカニックボディに順応しまくって育ったくせに、ヘルヴァは女のコなアイデンティティを保持していて、その語り口はなんかもう、仕事に恋に頑張る女のコ♡なんすよ。宇宙船なのに。笑。
ヘルヴァは頭脳船である自分に誇りを持っていて仕事もよくできる。惑星都市にワクチンを届けたり災害地に救援に赴いたりといった仕事をさくさくこなして、着実にキャリアを重ねてく様はワーキングガールの活躍・成長物語として堪能。
さらに、頭脳船(ブレインシップ)は、「筋肉(ブローン)」(笑)と呼ばれる専任乗組員とペアを組むことになってんだけど、そのパートナー探しの顛末は、王子様との出逢いを待つ姫君チックに少女漫画的。設定はしっかりしてるから甘過ぎるってこともなく、その甘さ甘くなさ加減も好適。
解説でも、SFにあまり親しまない人にも楽しめる小説として紹介されてます。

短編集「塔のなかの姫君」にもヘルヴァの短編が所収されてます。
シリーズ続編もあって、今んとこ「旅立つ船」「友なる船」「魔法の船」「戦う都市」「復讐の船」「伝説の船」が出てる。
「旅立つ船」は少女漫画度が倍増、パートナーとの恋愛話が濃厚(笑)。
「友なる船」は頭脳船の主人公より若い貴族子弟の冷血非情ぶりが格好良すぎな悪役萌え(笑)。
しかし、どうもシリーズ後半は失速気味な印象で、やっぱり一番最初の「歌う船」ヘルヴァが一番出来がいいんじゃないかな。短編集で読みやすいしね。





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