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「ゼイリブ」 [映画]




ぶふふふ(笑)。何だコレ(笑笑)。
所謂B級映画なんだけども、なんかその筋では有名な監督さんらしいですな。amazonでも値段が高騰してる。

なんだか世の中不穏であるなあ、うーんまあでも俺はアメリカを信じているのさ、とか言ってたら、なんと地球はいつのまにやら欲深エイリアンに侵入され支配されていたのだった!
ていう、トンデモ陰謀論っぽいお話。とはいえ、辛辣な社会風刺として結構鋭い描写もありつつ。

この映画のキモは、主人公が不思議メガネをgetして繁華街を眺めたときの場面。ここはちょっと笑えない。
メガネをかけて広告ポスターや看板を見ると、そこには、支配されてることに気づかないで居るように洗脳するワードがもりもり連ねられてる。
サブリミナル効果の倫理問題がメディアを賑わしてた頃だったのかもしんないな。

これらのメッセージ群はなかなかエグくてステキ(笑)。

「OBEY(従え)」
「MARRY AND REPRODUCE(結婚して出産せよ)」
「NO INDEPENDENT(自主独立するな)」
「CONSUME(消費せよ)」
「WATCH TV(テレビを見ろ)」
「BUY(買え)」
「STAY ASLEEP(眠ったままで居ろ、目覚めるな)」
「NO THOUGHT(考えるな)」
「DO NOT QUESTION AUTHORITY(権威に疑問を持つな)」
「HONOR APATHY(これうまく訳せない。無感覚を尊敬せよ。誇れ。みたいな感じ?)」
「NO IMAGINETION(想像するな)」
「SUBMIT(服従せよ)」
「CONFORM(順応せよ)」
などなど。

雑誌スタンドのおっさんが手にした紙幣には「THIS IS YOUR GOD」て書いてある。あからさま過ぎ正直過ぎ(笑)。
中には「WORK 8 HOURS SLEEP 8 HOURS PLAY 8 HOURS」ていうのがあって、おお、親切じゃん、って笑った。笑えないけど。
家畜を長生きさせてより多く絞りとるには「♪24時間働けますか」より賢いかも。

欲深エイリアンはいかにもな特殊メイク顔で安かったり、侵略に気づいた主人公はいきなり銃をぶっ放して暴れる無茶をやらかしてみたり、路上ぼかすかファイトがやたらに長々と続いたり、いろいろとアレなところはあるんだけど、ところどころで真顔になってしまう、笑い飛ばせない切っ先の鋭さがある。


上述のようなメッセージは今なおフツーに発せられ、受け取られてる。
今だったら「困窮は自己責任」「働けない人間は死ね」「権利とか主張する人間は努力せずに我が儘勝手をぬかす屑なのでボコってよい」とか、発せられまくり。
ただ、陰謀を巡らせてメッセージを発する何者か、みたいな存在は居ない。
その居なさ・存在し得ないこと自体が現代の困難なんだと思う。

あるのはただ、世論とか、市場原理とか、主体を形成し得ない曖昧なものの動向にOBEYすることが良識である、みたいな雰囲気として。










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「ソイレント・グリーン」 [映画]

3Dのリメイク版の前に予習しとこうと思って「トロン」を借りにいったんだけど、既に借りられ済み。
気分的にはちょい古SF食欲が盛り上がっておったのでこれを借りてきてみた。
これが、今観てもおもしろい。ていうか、今観るとおもしろいのかも。




2022年、環境破壊による食糧難の世界。水も食料も配給制。衛生状態も悪く、誰も彼も埃っぽくて汗臭そう。そういう、困窮した人々がどっさりぎっしりひしめいてる。
ソイレント社の製造するこちこちしたブロック状の食品がソイレント・グリーン。いかにも旨くなさそう。
主人公の刑事・ソーンは、街の有力者でソイレント社のもと役員が殺された事件を捜査する。単純な強盗殺人のように見せかけて暗殺されたその背景を探るうちに、ソイレント・グリーンの秘密の裏側に迫ってゆく。捜査を妨害されたり命を狙われたり、そうとうヤバいその秘密とは。

チャールトン・ヘストンの活躍はもちろんのこと、この世界の困窮っぷり、飢えっぷり、シケシケっぷりが見どころかと。
気候が温暖化しててクソ暑いのに、ろくに入浴もできない。石鹸すら足りない。
生鮮食料品は超高級品なので、ごく一部の富裕層しか手に入れられない。
「すごいものが手に入りました、若い方は見たことないでしょう、牛肉ですよ」
ソーンと、“本”と呼ばれる年寄りの相方ソルが正式なディナーを気取ってレタスや肉の煮込み、りんごを食べる場面は幸せそうで沁みる。
「こんなの初めて食べる」「昔はいつもこうだったんだ」

一方で、一部の富裕層宅には水も食料も日用品も嗜好品もたっぷりある。あるとこにはある、っていうのがミョーにリアル。
そういうリッチな家には、”家具(ファニチュア)”と称される若い美貌の女が居て、贅沢に飲み食いして綺麗に着飾り、家主に仕えて家事をしたり性的な相手をしたりする。
家具だってよ家具。モノ扱い。ぎょわー。
食い物も日用品も、圧倒的にモノが足りない世界では、人間の価値は著しく下落している。 “高級家付き家具”な若い女はモノ扱いでもまだいいほう、っていう地獄。
その他大勢の人間はほとんどゴミ扱い。暴動の制圧にショベルカーみたいなやつが出てきて、逃げ惑う人々をもりもり掬い上げてぽいぽい積んで片付ける。

“ホーム”と呼ばれる場所の、つねに微笑をたたえるスタッフの薄ら親切さ、清潔さには肝が冷える。欺瞞に満ちて、ものすごく薄気味悪い。
その場所の存在自体が欺瞞なんだけど、それでも、そこで最後に観る映像と音楽は、切ないほどに幸せで美しく、悲しい。
世界がクソであればあるほど、その美しさは際立って冴える。なんて残酷だ。


制作されたのは’73年。
科学技術の発展によるユートピアな未来世界が盛んに描かれる一方、発展の裏に潜む危険とか、倫理や人間性が置き去りにされる不安、環境問題や貧富の格差、そういう、暗い影が射してたんだろう。
ピカピカのアルミみたいな服着て各家庭に一台ロボットが居たり宇宙旅行したりスイッチひとつでなんでもできたり、豊かで何の心配もないユートピア未来がまぶしければまぶしいだけ、そういう影は濃かったのかも。
その、影のディストピア未来。











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「カラフル」 [映画]

なんかあんまりコなかった。つか、全然コなかった。
期待しすぎたのかな。

なんだそんなことか、っていうか、ある意味当たり前のことですねえ、みたいな肩透かし感を拭えず。
当たり前のことであろうけれども、その描かれ方によってそれが当たり前であることの素晴らしさ有り難さがじんと沁みてくる、とか、そういうこともなく。
こういう言い方は我ながら上から目線で嫌な感じと思いつつ、どうにもこうにもコない。


アニメ表現である意味がよくわかんなかった。人物の表情や仕草や、細かいところまで気を配ってあるのはわかるけど、実写の人物の演技で表されるほうが合う演出のような気がする。特に母ちゃんのしんどさツラさとか気まずさとか。
背景の絵の描きこみの精細さは凄いとは思うけど、凄い以上の感情が湧いてこない。また、ところどころ実写(描画加工が施されてるのかもしれないけど印象は実写)が混ざってて違和感。人物との馴染み加減や場面場面での写実レベルにガタつきがあって統一されてない印象。

全体に、灰色のアスファルトの無機質な質感が印象に残る、都会の冷たい感じがして、にもかかわらずそこに滲む人の姿、それぞれの思いは鮮やかにカラフル、ていうふうに描きたいのかな、とは思ったけど、どうにも灰色の印象のほうが強く感じた。

ただ、人は生きてゆく上で、どこかで死を通過しなければならないのだよな、ということを思った。
実際に身体を滅するという意味ではなく、比喩というか、魂の死という意味で、自分の中で古い自分を死んで新たに生き返る。河合隼雄っぽい。
比喩と言ってもこれを超えるのは生半可ではなく、失敗して本当に身体も死んでしまったり、死んだまま生きてる人もいる。

ちゃんと死なないと、ちゃんと生きられない。逆も真なり。






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「トイレット」 [映画]



ビミョー(笑)。
決して退屈したわけじゃないし、ところどころクスッと笑えるヘンな間のユーモアを堪能、楽しんだんだけど、なんかこう、一抹の物足りなさが。
「かもめ食堂」観たときの不思議感、きのことかプールのとこなんかの、ヘンに納得する不思議な感覚とか、ほのぼのしてるようで水面下にすごく重く厳しいものを潜めているような、妙にざわざわする怖さ、そういう、薬とすれすれの毒みたいなものが足りないのかも。
もっと怖ヤバくしてくれてもよかったような。

それにしても、あんな無音でただ餃子食べたり煙草吸ったり、トイレから出てきてため息ついたり、それだけの画ヅラに全然退屈しないで、むしろ引き込まれて観ちゃうってのはどういうことなんだろう。

細かいとこ、モーリーのスカートとか、ばーちゃんの靴、バス停の不思議おばさんの着こなしとかがいちいち素敵だった。詩のクラスの乙女チックぶりぶりガールの蝶々ポエムのウザキモさも極上で吹いた。リサにお金くれるときのばーちゃんのちらっと目線とか、たったふたことのばーちゃん台詞のスーパークール、ラストの「あっ」のオチとか、なんだかんだで細部の味わいがしみじみ印象に残りますのな。

あと、センセーが我が家の愛猫・小梅に激似で個人的見どころでした。微妙な灰色とかはっきりしない縞模様とか、そっくり。

それにしても、上映前「スープ・オペラ」「マザーウォーター」と立て続けに似たような映画の予告が流れて、如何なもんかと思う。印象が似過ぎてて興醒め。





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「ステラ」 [映画]



だいーぶ昔に深夜テレビでやってたのを偶然観て以来、ずーっと印象に残って覚えてて、いつかまた観たいと思ってたところ、つい先日、昼間のテレビでやってた。でかしたテレビ東京。
初見の印象のせいか、なんかこれ、テレビで観るのに似合う感じがする。主人公の雑駁な印象もテレビに合うのかもしれない。

ともかくステラ母ちゃんの魅力に尽きる。ビミョーにずれてたり、洗練された人物ではないんだけど、明るく強く朗らかで、常に一生懸命な姿に、なんかほっこりする。素直に泣いたり怒ったり笑ったり、感情表現が豊かに活き活きとしていて、目が離せない。特に笑顔がイイ。

初見のときには、イイ話だー、と素直に思えたけど、今観たらちょっと納得いかんかった。特にラスト。以下文字色反転ネタばれ含む。

ステラは、学歴も教養もない自分は娘の傍にいないほうがいい、と、決心し、娘を娘の父親とその再婚相手に託す。わざと邪険にふるまい、娘を突き放す場面は迫力。その後、所在もわからなくなって完全に娘の前から姿を消す。
ラストシーンは、娘の結婚式をこっそり覗くステラ、どこまでも娘のためを思って娘に会わないまま、雨にうたれながら娘の幸せを喜ぶ姿で終わる。

イイ話ではあるんだけど、君らズレてるよ、ていう感じが猛烈にする。
娘のためを思って離れたほうがいい、っていうのともかく、娘から姿を消すって極端すぎるだろうよ母ちゃん。でもこの辺りはステラのやたらに思いきりがよすぎる侠気を思うとわからないでもないんだけど、そういうことやらかしそうな気配を周囲の人らもわかったれよ。などと。
いかにも育ちのよさげな父親&知的で好人物な再婚相手も、ステラに言われたからって言うとおりし過ぎ。

いっちアレなのはジェニー娘。母に追い出された時点で、母と距離をおくのはアリだと思うの。ただ、あすこで父ちゃんとこ行くんじゃなくって、一人暮らし自活っていうテはなかったものか。ぜひとも自立を選ぶべきですぜよ。父親とも母親とも距離をおくのだ。
父親から学費をふんだくって好きな建築の勉強続けるテもあったんじゃないのかなー。

それに、良家の坊ちゃんと結婚して幸せ、っていうオチも如何なものか。制作された'90年においても、既にそういう御伽噺シンデレラな幸せって現実的じゃなかったと思うんだけどな。しかもアメリカで。
さらに深読みすれば、ステラこそが母の鑑、母親とはこうあるべき、みたいなふうに観ちゃう人が居そうなのも嫌。

やっぱり、自分が幸せになるってことを大切にしないといかんと思うのよ。誰かのために自分が犠牲になればいい、っていうのは、自分さえよければ、っていうのと同じ独りよがりなのだよ。
などと思う、ステラの姿に素直に感動することができなくなっている自分を発見しましたのです。






つか、DVDの高騰っぷりがすごい。なにこれ。



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「ヒックとドラゴン」 [映画]





終わっちゃうぎりぎりでようやく観た。3D吹き替え版。
これ原題「HOW TO TRAIN YOUR DRAGON」の方が気が利いてるね。

いやー飛んだ飛んだ。三半規管にクる感じで飛べる。愉快痛快爽快。
竜にまたがった主人公視点の滑空とかトリハダものにスリリングで、つい尻が浮きそうになる。すごいすごい。
これは3D上映で観るのが断然よい、みたいな感想を散見したけれど、なるほど納得。

でもって黒竜がveryべらぼうに愛くるしい。犬猫哺乳類的な愛くるしさで、きろきろくりんなお目々とかガニッと内向きな前足とか異常に可愛い。火ィ噴いたりして破壊力抜群なヤバい獣が自分にだけはすりすりごろごろ懐く、ってのがまた萌える。お約束とはいえ窮地に陥った主人公を助けに駆けつける忠義っぷりにはつい涙。かわええ。
しかしこのコの名前はどうにかなんないものか。吹き替え版トゥースも原版Toothlessもなんか今ひとつハマらない。むしろ、たま、とか、ポチ、とか呼びたくなる感じの犬猫感なんだけども。
なんていうか、もうこのコにはこの名前しかない、ってくらい、名前とそのコの印象が一致してハマる命名だったりすると、用もないのについ呼んじゃったりするじゃないすか。そういう感じがないのよな。何故だ。

お話的には、ダメっ子主人公が自分なりの感じ方や能力を発揮して大活躍し周囲の考えを変えてゆき真の敵をやっつけいがみ合っていた竜と人間がなかよく楽しく暮らせるようになりました、ていう安心して観てられる展開。
にしても、たいした訓練もせずにいきなり乗りこなせるような賢く懐っこく使える動物を家畜化せずにごんごん殴って殺すだけってそこまで能無し揃いってのも説得力ねえなー、とか、殺した殺されたの憎悪があっちゅー間に克服されちゃいますのねー、とか、人の話聞けよ親父、とか、かるーくツッコみたくなるんですが、まあつまりそれだけ竜が魅力的だってことですかね。

とにかく黒竜の愛くるしさと痛快極まる飛翔体感がキモ。
我が家の愛猫を巨大化して翼生やして鞍つけて乗りてえ、ていう妄想が頭から離れなくなった。実際巨大化したらまず食われるだろうけど。






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「トイストーリー3」 [映画]



大蟻食様の大絶賛に推されて観に行きました、吹き替え・3D上映。
そもそもがディズニーのメリケンなバタくさいキャラクターにてんで魅力を感じない上に、フルCG映像も興味がなく、正直言ってなめてたもんで、これが初ピクサー体験ということに。
いや、ほんとコレすごいですな! 3D上映も「アバター」のときよりスムーズで、疲れずに無理なく堪能できました。

フルCG映像ちゅーのは、アニメでもなく実写でもない、独特な世界なんですな。
‘80年代くらいかな、ひところ大流行りした、写真みたいにリアルなハイパーリアリズム絵画・イラストレーションってあったでしょう、ああいう感じの妙なリアリズム。リアルなリアリティ、みたいな。
CGだと思って観てんだけど、ウッディやバズたちはおもちゃっていう素材感がCGの質感にフィットしまくってて、実写みたいなリアルに感じる。絵柄だけじゃなくって動きもいかにもおもちゃっぽく、兵隊人形のちこちこ歩きやバービーのぎこちない動きなんかもすんごくリアル。CGだからってバービーを人間みたいに動かしたりはせず、あくまでおもちゃっぽい動きに徹してるんですな。
家屋とか草木とかのモノの質感、素材感もえらいことリアル。それも、本物より本物っぽい、上述のハイパーリアリズム絵画的なリアルっていうかね。
一方で、アンディや子どもたち人間が出てくると、おもちゃたちの世界との差異がガクッと強調されて、ああこのコたちおもちゃだったっけ、CGだったんだっけ、て認識を新たにさせられる。
それにしても、「トイストーリー1」の段階での話だけど、CGっていう映像技法を選ぶにあたって、おもちゃを題材に選ぶ戦略が見事過ぎ。

お話的にも堪能。
ディズニーでピクサーな訳だからめでたしめでたしに決まってる訳で、安心して観てられるはずなんだけど、結構しっかりドキドキハラハラさせられる。いや、安心して観てられるからこそ、なのかな。存分にドキハラを堪能できるっていうか。
それぞれのキャラクターのエピソードとか見せ場的な活躍もお楽しみ。ウッディのグライダー滑空はそりゃもう気持ちよいし、バズのリセット変貌からスペイン語バージョンのムーチャス アモールっぷりは笑える。ポテトヘッドの活躍が意外とキた。目鼻手足が外せて使えるとは便利なやつ。ロッツォのエピソードは物悲しい上に、身に覚えがないでもないので罪悪感に胸が痛む。
個人的にはケンのキャラ設計をおもしろがってた。女の子のおもちゃの添え物的扱いされて憤慨してみたり、服に興味がない他のおもちゃたちを嘆いてみたり(笑)。ファッションショーのとこは腹抱えて笑った。ケン最高。

「1」「2」も借りてきて一気観、これもおもしろかった。
「3」は「1」との関連というか、繋がりが意識されてんですかね。「3」のラストの青空、浮かぶ雲の形は、「1」のアンディの子ども部屋の壁紙の模様なんすね。
アンディは子ども部屋を出たよ。現実の空の下に巣立っていったよ、っていう。「1」のアンディの子ども時代まで長い射程をもつ「さよなら」の空。(そして、ボニーとの新たな子ども部屋の空、なのかも?)
「3」の(ネタバレ防止のため文字色反転)焼却炉からウッディたちを救うクレーンは、「1」のクレーンゲームで異星人たちが崇めていた”選ぶ手”で、しかも選ばれる側だった当の異星人たちが操作する側になってる。
他にもオマージュとかパロディとか仕掛けがあるかもしんない。DVDになったらもっかい観てみよう。

シリーズ全体を通して満ち満ちているのは、「子どもを楽しませてこそおもちゃ」っていう、おもちゃのアイデンティティと誇り。そして何より、子どもを幸せにする喜び。
「1」では、スペースレンジャーではない自分に落ち込むバズに、ウッディは、おもちゃだからこそアンディを楽しませることができる、君は素晴らしい、と言い、「2」では好事家のコレクションになるよりも、子どもの遊び相手として楽しませる喜びを選ぶ。
「3」では、大人になっておもちゃを必要としなくなったアンディに別れを告げる。いっしょに遊んだ子ども時代の日々を大切にするからこそ、成長したアンディに執着しない。そしてまた新たな子どもを幸せにするために、ウッディたちも出発するわけですよな。

この、「子どもを楽しませてこそ」っていうのは、たぶんディズニー、ピクサーの姿勢でもある。
ディズニーの肝の据わりっぷりは、「魔法にかけられて」で、自虐的に自己言及しつつも、オチはあくまでも夢の世界なめでたしめでたしに落とし込むチカラワザにも顕れる。あれはもう、いっそすがすがしく感心してしまった。
どこまでも子どもに向けられる眼差し、そのこだわりはハンパじゃないですね。



ところで、「借りぐらしのアリエッティ」と比べても、その陽性の力強さが際立つように思いましたです。
いずれも人間に比べてちっさい縮尺で、人間に見られてはいけない、人間と直接に関わらない(アリエッティはそこ越えちゃったから去らなくてはならなくなった)。
アリエッティたちの、衰退と滅びを予感させつつも生きていこうとする儚い強さと、おもちゃたちの、子どもたちに忘れられるかもしれなくっても信じて共に過ごそうとする明朗さの対比がおもしろいなー、と思いましたです。
同時に、ジブリとピクサーの対比としても見られるのかも。


つーかさー。NHKの番組で、「アリエッティ」製作の舞台裏ドキュメンタリやってたけど、いやもー満身創痍でツラそうで、ヒトゴトながら心配になったんですけどどうなのそれ。番組的に苦労話のほうがウケるとか、苦労強調なつくりを疑ってみるけど、それにしても、ツラそう過ぎる。魅力的な表現を生み出そうとする、ドキドキ感もわくわく感もまるっきり伝わってこなくってさ。いやそういう喜び皆無なわけはなかろうが、それにしてもヤバ過ぎだろう。

「笑ってコラえて!」で、「トイストーリー3」のアートディレクター、堤大介さんがニコニコへらへら制作の裏側を語っていたのと対照的。いやこれも「笑ってコラえて!」っていうへらへら番組だったからかもしんないけど、でもすっごい楽しそうでさー。お絵描き大好き、おもしろいでしょおーえっへん、って感じだった。でホントえっへん、な出来だよね。ピクサーすげえわ。








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「もののけ姫」 [映画]

引き続き夏の課題、宮崎駿作品遡り中。
「崖の上のポニョ」「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」ときて、「もののけ姫」。

初見の印象はあんまりよく覚えてない。ていうかこの頃、宮崎駿にあまりいい印象をもってなかった。説教くさいとか押し付けがましい、的な。
まあ実際押し付けがましくなくはないと思うけど、表現者が自分の世界押し付けてくんのなんて当たり前っちゃ当たり前なんだろう。
ただ、思想的な背景を別にしても、表現として作劇とか演出とか映像技術とか、凄い水準の表現技巧なのだろうなー、と思う。
どうにもこうにも惹き付けられて見入ってしまう。


虐げられた者の憤怒
実は、今回改めて観直したら、ほとんど全編つらくて苦しくて、ぼろぼろだーだー泣けて泣けて泣けてしょうがなかった。
生きる場所を奪われ、尊厳を蹂躙された者の怒り、理不尽への憤りにほとんど取り憑かれる。
悔しくて憤ろしい。苦しい。憤怒の苦しみ。

ナゴの守、乙事主、モロの君の憤怒。
この生きものたちは、純粋というか生(なま)というか、純度が高くって、剥き出しの猛々しい激情を抑えようともしない。
獣の慟哭。咆哮。
観ていてとても苦しい。

抑圧する側に見えるエボシ他、タタラ場に暮らす者たち、実は彼らも社会から抑圧・蹂躙されてきたことが窺える。特に女たち、癩病者。
エボシは売られた娘を引き取ってくる。女たちは「下界に比べればずっといいよ。お腹いっぱい食べられるし、男が威張らないしさ」と笑い、癩病者は「初めてわしらを人間として扱ってくれた」と咽ぶ。
長であるエボシも虐げられた者の憤怒を抱えているっぽい。だからこそ攻撃的になる。
「賢しらにわずかな不運を見せびらかすな!」との言に、エボシのルサンチマンが垣間みられる。そう簡単に鎮められるものではないこと。
シシ神殺しへの執念は、何か復讐・逆襲めいた切迫を感じる。追い詰められた者が必死になるときの。

サンの憤怒は、獣の怒りであると同時に、人間社会から見捨てられた人間としての憤りでもある。
人間として捨てられ、獣として居場所を逐われる、二重の排除。憎しみの深さ。

誰も彼もが憤怒と憎しみに駆られるなかで、アシタカは葛藤する。
「森とタタラ場、双方がともに生きる道はないのか」
アシタカはたぶん一番観客に近い位置に居るはずなんだけど、その実、なんだか遠い感じがする。
とても賢くて聡くて、で、その賢さは執着を捨てた故の、世捨て人のような聡明さ。
アシタカ自身も呪いを負い、生まれ育った里を逐われていて、怨み憎しみに駆られてもおかしくないのだけど、一方、彼は里との関わりを断つことで愛する人々や里を守ることが出来た。だからある程度納得できてる。自分ひとりぶんの怨恨で済むという納得。
また、もともとアシタカの一族は大和朝廷に逐われたエミシの子孫ってことらしい。抑圧された者の末裔として、負けながらも生きてのびてきた歴史に学んだ強さがあるのかもしれない。

ジコ坊と唐傘連、ジバシリたちは、自分たちが何をしているか知っていて、何も感じていない。
他者を踏みにじって良心の呵責を覚えない人たち。侍もそうかな。
こういう人たちは、弱いものが滅ぶことを仕方がない、と言う。自分が滅ぼしたとしても、そう言う。
権力者、為政者の思考と感性。


癩病者の長がアシタカに言う、「自分も呪われた身であるから、あなたの苦しみはよくわかる」との台詞にぎゅぎゅーっとキた。
往々にして、虐げられた者の憤りや憎しみは理解されない。被害者意識、とか、現状を受け容れればよいのに、みたいに言われてしまったり。
憤怒と憎しみを鎮めるのは、何よりも、その苦しみを理解してくれる者が在ること。
苦しみを理解し、共感してくれる存在によってのみ、祓われ、鎮められるんだと思う。

あと、ヤックルの存在にホッとする。人と共に生きる獣。
家畜として使役されているけれど、一方的にこき使われている感じじゃない。アシタカが危機に陥ったときも傍から離れないし、互いに益するところを与えあってともに行動している感じ。
森の生きものと人間の敵対が烈しく描かれるほど、アシタカとヤックルの信頼関係に希望を見出したくなる。


シシ神
シシ神の描写には鳥肌が立った。怖い。
足下から植物が吹き出すように芽生えるとこ、あの足取り、あの顔、背筋がゾーッとする。

シシ神はどういう存在なのか、って考えると、たぶん森そのものであって、森が姿かたちを成す顕われ方の一形態なんじゃないかと。
だから、シシ神が死んだら森は枯れる。

初見のとき、まさか殺されると思わなかった。
人間に手ひどく神罰がくだされるだろうと、こんなにももつれて、憤怒と憎しみで膠着した状況を、神さまが公正に裁いてくれるんじゃないかと期待してたと思う。
お願い、なんとかして、みたいな。

神は裁かない。願いをきいてくれるとは限らない。
願い事を叶えてくれるから祈るのではない。
ただ信じて、ただ祈るからこそ、神は坐(いま)す。


魂鎮め(たましずめ)
このお話は、魂鎮めというか、ある種の祈り、祈祷なのかな、と思った。
タタリ神だけでなく、宮崎駿自身の憤怒を祓うための。
さらには、観る側、少なからず現代社会の矛盾や欺瞞を感じていたり、そのことに対する後ろめたさや苦悩を感じていたりする、その苦しさから救われるための。
なかったことにしたり、見ないフリして逃げるためではなく、救われるために。
ただ、それが成功しているかどうかは疑問。

実のところ、このお話は完成されてないっていうか、でっかい難があるように思えて、なんっっかこう、もやもやもぞもぞ釈然としない感があるのです。
特にラストのとこ。シシ神殺しと、その首を返したことによる森の再生。
森とタタラ場の対立も憤怒も恨みつらみも全部リセットされて、いちから新しくやり直そう、ていうのが、なんだかピンとこない。
そんなに簡単にリセットできるものかな。いや、簡単ではなかったのかもしれないけど、上述の憤怒や葛藤はいったい何によって鎮められ、祓われたのか、よくわからない。
デウス・エクス・マキナな解決、というか。
むしろ、負けっぱなしな「平成狸合戦ぽんぽこ」の方が得心がゆく。あれもつらいけど。


ただ、ひたすらの、限界まで迫ろうとする気魄でギラギラしていて、不格好なほどに必死で、切実で。
そのことは強力に伝わってくる。剥き出しの生々しさ。ギリギリまで足掻いてる。
だから観ていてすごくつらい。

ここで言う「生きろ」とは、憤怒の苦しみを知りつつも、なお、苦しくても生きろ、ということ。
もっと言えば、苦しんでくれ、ということ。
あなたの苦しみを引き受けて背負うことは出来ないけれど、傍に居て、ともに生きることはできる。
あなたの苦しみを、わたしは知っているよ。目を逸らさないよ。

魂鎮めには至らないかもしれないけれど、ギリギリの場所から精一杯の力で呼びかけられているのはわかる。
だから、難ありで不格好で必死で釈然としなくって、観ていてしんどくっても、どうにも捨て置けないお話。わたしにとっては。


ここんとこずっと「もののけ姫」のこと考えつづけて、「風の谷のナウシカ」漫画版も読み返したりして、もうすんげえ疲れた上に、感じたこと考えたことの1/10も書けた気がしない。
負け。大負け。ていうかハナから勝てる気なんかしてなかったけど。







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「借りぐらしのアリエッティ」 [映画]

へーえ。
なんだかこぢんまりしてて、でもそのこぢんまり感がイイ感じの作劇。
思ってたよりもしんみりせつないお話だった。

原作は未読なのだけど、小人や小さい生きものが主人公のお話というのは、普段の何気ない生活が、小さな生きもの視点でまるきり違うものにみえたり、身近な身の回りの物がまったく違う使い方で別物になるおもしろさがあると思うのね。
わたしが思い出せる範囲では、スプーンおばさんのお話で、指ぬき(所謂西洋指ぬき。シンブル(thimble)ってやつ)をコップに使う場面。あと、なんだっけな、ホテルに住んでるネズミの男の子が主人公のお話、仲良くなった人間の男の子が熱を出して、その子の為にアスピリンを探しにいくとこ。人間にとっては大した距離でもないのだけど、ネズミには大冒険だよね。

アリエッティも、まち針を剣に使ってみたり(一寸法師!)、両面テープやフックピアスを登攀用具にしたり、こまごまと縮尺の違う日用品が巧みに使われていて楽しい。
彼らの住まいとか、背景の描写もじっくり探してみたくなる感じの詳細な描き込み。

んで、人間や猫や他の生きものの大きさの感覚が、アリエッティたちにとって圧倒的であることが、ひしひしと感じられる。
大画面の猫の大顔面(笑)など、小人視点のクローズアップや、日常の物音が異様に大きく響いたりとか。
おもしろがれる範囲や冒険を試みるスケールを超えてて、端的に脅威。
人間が怖い。とても。
ハルさんの態度は、珍しい虫を見つけた程度のごくありがちな態度なんだろうけど、もう本当に恐ろしい。なんつう残虐シーンだ、とか思った。

一方で、人間としては小人たちと愉快に共存してみたい、っていう気持ちもあって。小人の為に家具調度を拵えて提供したい、ってのはそれね。ショウくんの行動は独り善がりで乱暴だったけど。
ただ、小人たちは小さくて圧倒的に弱い。人間が世話をしてあれこれ生活を調えてあげることが容易過ぎるほどに小さく弱い。
だから、関わったら確実に人間は小人を支配する。ペットにしてしまう。そのつもりがなくっても。
圧倒的な強者が弱者に安易に力を貸すことは、弱者の生活や尊厳を奪う。
(「南君の恋人」(内田春菊)は、男の子が女の子を可愛がりたい、っていう気持ちの顕われが、しばしば相手をおもちゃにして扱ってしまう、みたいなことを極端に寓意化して表されたお話だと思う。)

「借りぐらしのアンネ・フランク」なんていう観方もTwitterかどっかで見かけたけど、それだけじゃなくって、プラス「第9地区」かな、と。
他者に対する態度としてのお話。
彼らを憐れむんじゃなくって、彼らのそのままの存在を尊重する姿勢、っていうか。


ラストシーンのアリエッティたちの姿に、惨めさとか哀れさは微塵もなくって、ただ、彼らなりにフツーに生きていくんだよな、と思わされる。
自分より小さくて弱い生きものが居るってこと。その存在の尊さと、自分が誰かを滅ぼしうる怖さ、みたいなことを感じたことでした。





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「稲妻」 [映画]

去年の夏の課題。書いたの忘れてた。

成瀬巳喜男監督の映画は、正直苦手なんだけど、コレは好き。
夏の暑い時期に観るのがハマると思ってじっくり観たんだった。夕立とか雷がよく似合う。

高峰秀子.jpg


ひと言でいうなら、鮮やか。まさに雷光の一閃のような鮮烈な印象であることよ。

わたしの苦手とする、息苦しいほどに濃密な成瀬の気圧、じわじわと場を圧して逃げ場を奪い、ほとんど体感的に締め上げてくるような空気はいかんなく発揮されているのだけれど、その圧力は、緊張が頂点に達し、一瞬で散じる極点に向かっている。この瞬間、極点の冴え。
爽快でありながら、切り裂かれた空気の重さ、ふるった一閃の手応えが返り血のように滴り落ちる。そして、その余韻、気魄の名残をいとも軽やかに収束してみせる豪腕。
素晴らしいです。

高峰秀子演じる清子が実によい。凛々しくって、かわいらしい。
ヘチマ襟(ラウンドカラーかな?)で、ラグランスリーブ切り替えのとこにフラップがあしらってある半袖のシャツブラウスがすっごくよく似合っててイイ。↑のイラストで着てるやつね。あれ欲しいなあ。
オープンカラーの白いワンピースもイイ。光子姉ちゃんのカフェのシーンで着てるやつ。

ずるずるべったりな母ちゃん姉ちゃんに苛立ってて、ほとんど不機嫌に憤ってるんだけど、その不機嫌顔が瑞々しくって、応援したくなる感じ。
青い未熟果みたいな。硬くて青くて、だけど瑞々しい頑(かたくな)さ。
カフェで綱吉に迫られて「イヤ!」って拒むんだけど、そのときの表情がアップになるとこ、このときの顔が思わずハッとするほど美しいです。

なにしろ、清子の周囲の男どもの厭らしいこと情けないことといったら。
義兄・露平は初っ端に亡くなるものの、その妾が赤ん坊を抱えて金をせびりに現れるし、下卑た厭らしさを放つ綱吉の不誠実、南方ボケと称する実兄・嘉助のヘタレ、アヤしい投機話に入れ込む義兄・龍三のダメっぷり。
さらには、男たちにまつわる母や姉たちの苛立たしい浅はかさと愚鈍。
生臭く胡乱な気配を放ちながら、どんよりと澱のようにわだかまる親族。

象徴的な実家の画は、画面上部を占める重い天井が斜めに傾ぐように配され、ぎゅうぎゅうに家屋が詰まった細い路地のカットと相まって、ひどく息苦しい。
遠方に抜ける逃げがまったくない、近視眼的に目先のことしか頭にない母やきょうだいたちの視線。
有象無象がひしめきあう生臭い人間関係のただ中に、「しっかりしないと腐ってしまう」と、清子は言う。
そんな環境にあれば、頑に不機嫌であることも致し方ない、と思わせるかのような、徹底した閉塞がある。

しかし、たぶん清子の不機嫌はその環境ではないと思う。それは表層の理由に過ぎない。
清子のイライラ不機嫌台詞はこんな感じ。
「お母ちゃんやお姉ちゃんたち見てると、結婚なんて女がわざわざ不幸になるためみたい」
「つまんないな。女って」
「だから男ってイヤなんだ」

そもそも、「つまんないな。女って」と呟く心持ちとは、如何なるものか。
何故に女は不機嫌であるのか。
不機嫌の理由なら千も挙げられる。千の理由とは、つまり理由なぞないのも同じということです。
気に入らない。何もかもが気に入らない。

自分を受け容れて当然とばかりにせまる綱吉が気に入らないし、裏切られてもなお夫に尽くす次姉が気に入らないし、欲得尽くにみえて男にふりまわされている長姉が気に入らない。
父親の違う子を四人ももうけ、とっくに成人している兄を甘やかすばかりか娘婿の不始末まで面倒をみようとする母が気に入らない。
しまいには兄のすね毛まで気に入らない(この描写は可愛らしくって微笑ましい)。

しかし結局のところ、もっとも気に入らないのは、自分が女であることそのものであろうかと。
極端に言えば、女であることを呪ったことのない女は居ない。
生物個体として自己同一性を防衛する免疫機能に反し、異生物を受容して“孕む”性であるということ。
“自分ではないもの”を受け容れるつくりの性を持っていることの、根源的な、恐怖に近い感情。
そして、そこに誠実に真摯に向き合おうとすればするほど不機嫌になる。

それでも清子は、実家の美しい下宿人と「火のような恋愛をして、結婚する」なんていう話をしたりする。くすくす笑う様が他愛なく、かわいらしい。
母に稲妻の一閃を叩き付けた清子の昂りを鎮めたのは、隣家の青年が爪弾くピアノの旋律。
実は冒頭でも、いたわりあう老夫婦をみて「いいもんねェ、年寄り夫婦って」なんてなことを言ってたりするんだった。
端々にちょこちょこっと差し挟まれる肯定的な態度や情景が、爽やかな涼風が吹き込まれるようでほっとする。
沈殿する親族の生臭さ息苦しさが圧倒的なだけに、余計に鮮やかにキく。濁った水が澄んでゆくような晴れやかさ。コレが好き。

清子はいずれ、女の不機嫌を祓うことができ、きっと自らを心から讃えることができるようになる。
鮮やかで烈しい稲妻の一閃の直後に、そういう、自己肯定への予感を滲ませ、さらっと閉めるラストシーン。
美事過ぎです。






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