SSブログ

「キック・アス」 [映画]

失敗orz
鑑賞に臨む姿勢を完っ全に誤った。
「スコット・ピルグリム…」のノリを引きずったまま、すっとこ主人公のおポンチコメディな期待全開で臨んでしまい、存外な残虐っ子の毒気を無防備に食らってダメージ甚大。

ていうか、ド単純に正義をキめるヒーロー=英雄が成立しづらくなった昨今、ヒーローといったらネタかシャレ扱い、往時のヒーロー様たちの独善的正義をおちょくった仕様じゃないですか。大抵は。
または、特殊能力者故の孤独とかいち個人で負う道義的責任の重さに苦悩しまくりな、英雄物語の体裁をしたサンデル白熱教室だったりとかさ。


冒頭は確かにおポンチだった。
英雄になりたいオタクでヘタレでのび太なへっぽこ主人公が、憧れでおさまらずにコスプレ、成り切ってヒーローしようとしてボコられ、おまけに意中のあのコにゲイと勘違いされる、とか、イタさに身悶えしながら笑える展開。
ユルピタなサイズ感が絶妙過ぎるキックアス・スーツ、微妙なしわとたるみがリアルクローズなコスチューム姿で街ん中ほてほて猫背歩き、あの画ヅラはひじょーに安定したおポンチ加減ですだよ。

で、そこへもって残虐っ子・ヒットガール様ご光臨。
笑えねえ。笑えねっす。
チンピラ悪党の胸からしゅぱーん!て刃が生えるwith血しぶき、ていう華麗な登場シーンで凍りました。瞬間凍結。
いやそれまでもなんか物騒な気配はあったけどさ。
それでも、この子のまったく躊躇いのないぶっちぎりな残虐ぶりに、この先どう観ればいいのか完全に見失ってしまいましたのですよ。
その後もどうにも体勢を立て直せず、困惑の極み。


ヒットガールとビッグダディの躊躇いなさは、往時のヒーロー様たちのド単純な独善的正義への痛烈な皮肉、ていう読み筋じゃないんですか普通は。
年端もいかない子どもがヒーロー気取りでハンパない大量虐殺、なんて真っ黒い皮肉だよ痺れるぜ、と思いきや、なんかコレもしやまさか皮肉じゃなくてマジなんですか。
「本物のヒーローだ…(憧)」
って、ええええええわからん。
ヒットガールがヤバさ極まる勘違いバカとして扱われないのがまるでわからない。

もうなんかこの際「キル・ビル」とか「デスペラード」ばりに正義とかどうでもいいバカ暴力だと思えばいいのかもしんない、と思いつつ、全然立て直せず。
(つか、「キル・ビル」も「デスペラード」も正義を標榜したりしないし。むしろ正義に立ってないことをこそ強調してるし)


それに困ったことに、ヒットガールの殺戮シーン、めっさカッコいいんですわ。
小柄で軽い子どもの体格を活かして身軽に攻撃をかわすのはもちろん、思いがけない身のこなし、巧みな武具の扱いで厳ついオヤジ多数を子ども一人でさっくさくやっつけてく
見惚れるほど爽快にカッコいい。
でも、このコがカッコよくていいのか納得しがたいままカッコよいので、そのズレがどうにも気になって気持ち悪い。


でもって主人公キックアス・デイブ。
「どうして誰もヒーローになろうとしない?」
「金持ちや超能力者じゃなければヒーローになれないのか?」
「何もできない、といって傍観してるのが許せない」
とか、世界に対する当事者意識、自ら主体的に世界に関わっていこうとする態度が彼を主人公たらしめているわけなんですよな。
なので、キックアスは、前半でボコられながら車泥棒や暴漢を防ぎ、彼の力の能う限り正義を為した。
すっごく頑張ったじゃないですか。
で、そのことは確実に彼の世界を変えた、すごいことなはずなんだけど、なんかけしトんでる。
あれが大事なんじゃないの?

その後ヒットガール登場以降、キックアスってヒーローらしきこと何もしてなくね
「能力がなければ責任がないのか?」
と、ご大層な決意でヒットガールに助太刀するけど、そのジェット付きガトリング砲ってオマエの能力じゃないだろうがよ……。

あ、あとさ、ビッグダディの元相棒のマーカスって完っ全に傍観者なんだけどオマエ警官だろ何しに出てきてんのアレでいいのバカなの死ぬの。


やっぱりなんかヘンだこの映画。
ヒットガールの正義が疑わしい上に、キックアスの態度のズレも重なって、なんかこう、いびつな印象を拭えない印象でござった。

殺戮シーンのキレとか無闇なカッコよさとか、妙な勢いはあるんだけど。







コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「スコット・ピルグリム vs. 邪悪な元カレ軍団」 [映画]

先般、日常を取り戻そう、的なことを書いたけども、計画停電が収まったくらいからああっという間に普段通りいつも通りな生活に戻り、それはそれで喉元過ぎればなんとやら的なヌルさにも思えてどうなんだろ、と、もやもやしつつ、それはそれとして観てきたバカ映画。はははは。



「スコット・ピルグリム vs. 邪悪な元カレ軍団」公式サイト。こっちでも予告篇が見られます。音注意。


ゾンビ映画のパロディ「ショーン・オブ・ザ・デッド」、ポリスアクションもの「ホット・ファズ」に続いて、ゲームと漫画ネタがたっぷりこってり引用されたサブカル風味満載コメディ。ってことらしい。原作知らんしゲーム全然やんないんで元ネタが今イチわかんないけども、それでも結構笑った。

ともかくバトルシーンがおもしろ過ぎ。
チラシには「私とつきあいたいなら、7人の元カレを倒して!」とか書いてあるけど、そういうバトルではないような。
つか、なにがどうしてバトルに至ってんのか今イチ全然皆目わからず、唐突に敵が仕掛けてくるいきなり加減なんだけど、その無意味っぷりモチベーション不明っぷりも含めておもしろ過ぎ。
無闇なハイテンションとか、集中線や書き文字の効果とか、漫画・アニメ・ゲーム的な要素が過積載気味に大盛り、もー笑った笑った。

敵キャラが素敵過ぎる。
しょっぱなのインド人キャラはインド映画のミュージカル要素まで盛ってあって大喜び、大仰に名乗ってポーズを決める少年漫画バトルのお約束をきっちりこなすのにもけらけら笑った。
カタヤナギ・ツインズはそのキャラ名だけで吹いた上に、爆音キーボードの山積みアンプからドラゴン咆哮てなにそれ(笑)。
いっちお気に入りは菜食主義者(ヴィーガン)超能力ベーシスト。髪逆立って目が光ってて女殴るノリノリの悪っぷりでもーワルいワルい超ワルい。そんでその悪パワーの源が菜食主義っていう、ある種の菜食主義者の狭量さを皮肉った感もあるおちょくりっぷりに大ウケ。主人公に騙されて牛乳を口にしてしまい、ヴィーガン警察(?)に菜食パワーを奪われるあたり、最強にバカ。ていうかヴィーガンっていったいどうゆう扱いなんですかねヒドす(笑)。
ラスボスはなんか今少し薄い気もしつつ、前半のキャラが濃ゆ過ぎなのかもしれんが。
ネガ・スコットには超ウケた。最高。

主人公の周辺キャラも際だってて素敵。
ルームメイトのウォレス、主人公の親友ポジションなのにヒトゴト感全開+ビッチなゲイっぷりの我が道突っ走りな様に感嘆。うん、主人公もその彼女もバトルもどーでもいいよね(いいのかw)。
小うるさい妹とか小姑くさいメガネ娘とか小心ギターボーカルとかキレドラム娘とかが隙間を埋めてくんのもじわじわクる。
何より、思いこみ激しそうにウザくてイタいナイブスちゃん最高。後半のバトルにねじ込んでくる強引さとか凶悪にウザいんだけど、うっかり可愛い。アクションもしゃきしゃきキレがあって、比べると一応ヒロインであるはずのラモーナがどんくさく見える。てか、ラモーナどうでもいい。ナイブスの方がいいじゃん。



ちょい難なのは敵&脇役に比べて主人公スコット&その彼女ラモーナの存在感が薄くてどうでもいい感漂っちゃってるとこ。
なんかあんまり魅力的に見えないつーか、どして君らはその相手でなくちゃならんの?ていう説得力がなくってですね。
いやまあ、そんなん個人の好みとか思い入れであって説明不能な心持ちなのかもしれんが、スコットがどれくらいラモーナに惚れ込んでんのかってとこが戦闘意欲につながるわけなんじゃないすか、ってのに、全然この二人がお話を牽引していないと思うの。

敵キャラもラモーナの元カレを強調しつつ、ラモーナ眼中にない。どいつもこいつもラモーナ放置、皆さん“強い俺さま”を確認すんのに邁進爆走。


なんかコレひょっとして、全編スコットの心象風景、スコットから見たセカイ、なのかなーとも思いつつ。原題は「Scotte Pilgrim vs. the World」つって、仮邦題は「スコット・ピルグリム vs セカイ」だったのね。
で、好きになった彼女の過去が気になりまくるあまり要らんこと掘り下げて彼女そっちのけでバトる空回りだったり、“彼女が好き”というより“イケてる彼女が居る俺カコイイ”な、自己中心的なセカイ。なのかなー。そんで、バトルを通じて人間的にちょこっと成長する、とか、そういう話ですかね。

にしてもなんか辻褄あわないっつか、うーん、筋立てはなんかちょっとアレな気がする。
なのに、妙にまとまり感があって、華々しく破綻してる感じではないのが不思議。
テンポのよさとか、スマートな小気味よさがあって、なんかセンスいいんだと思う。

まあ筋立てはともかく、かっトんだバトルシーンだけでも見物でした。
あ、あと音楽カッコいい。相変わらず。

好みは分かれるかもしんないです。
「ホット・ファズ」が気に入れば観てみてもいいかも。




 


コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「夜と霧」 [映画]

アラン・レネ監督のドキュメンタリー。

なんだって今この時機にこんな重苦しんどい映像の話なんか、って感もあるけど、実は3/11にこの記事を書いてて、まさにupしようかなーと思った次の瞬間に地震が起こったわけなのでした。
地震以前のことがなんだか遠くなってて、すっごい昔に書いたもののような気がしてしまう。

震災の後にいろいろと感じて考えたことなども付け加えてup。



それなりに覚悟して観たつもりなんだけど、やっぱり惨い。しんどい。
虐殺された死体がごんごんもりもり映し出される。物量でクる。人体がモノみたいに見えてくる。
悲惨とか恐怖とか不吉さをかきたてるような劇的な音響効果とともに、映像がいちいち ばーん!どどーん!とキメてくる。よく見ろ、目を背けるな、みたいな。
ナレーションも恐怖を煽る。

多分に危機感とか切迫感、強い使命感によって制作されたんだろうな、とは思うんだけど、正直、わたしはこういうの脅迫だと思う。
平和運動や平和教育→怖い映像見せられて怖い話聞かされる、
ていう印象は、平和の希求としても運動や教育の方法として巧くないと思う。

見聞きするだけでしんどいから逃げたくなるし、または、しんどいけど頑張って耐えて見聞きする→しんどいことをやりとげたオレ偉い→なんかやったつもりになって自己満足。とかさ。

エンディングに被って、
「今もカポ(囚人頭)が将校が密告者が隣にいる」

「廃墟の下に死んだ怪物を見つめる我々は
 遠ざかる映像の前で希望が回復したふりをする
 ある日のある時期の話と言い聞かせ
 絶え間ない悲鳴に耳を貸さぬ我々がいる」

と、ナレーションが、終わった話・昔の話だって思ってるでしょ、みたいなこと言いつつ、このフィルム自体が、ショッキングな映像で脅迫するような演出そのものが、今現在観ている側から隔たった「ある日ある時の特別なお話」感を与えちゃってると思う。

で、実はそれと同じことをTVの地震報道、被災地からのレポートとかにも感じるのだけど。
阪神淡路のときもそうだったけど、出来事よりも、それによる悲惨・悲嘆・憤激を募らせる悲劇性、或いは頑張る・健気・力を合わせて共に・前向き、な人情話など、物語性が極端めに誇張されてるような印象。

で、そのお話が激しく極端に劇的であればあるほど、日常からかけ離れていればいるほど、「自分とは関係ないお話」として安心して悲しんだりおそれおののいたりできる。
または、励ましたり、自分も復興に参加してる気になったりできる。

たぶん、そういうお話に参加することで、出来事から受けるショックやダメージや影響を抑えようとするんだと思うけど、だとするとそれは出来事から目を反らして見ないようにすることだったりもするのかも。

つーか、最近のTVの煽り方はエグくて安くて見ていられない。

と、ここまでは映像・演出の話ね。





大量虐殺ということについて。

実は、これらの映像にそっくりな写真を見たことがあります。
虐殺された死体の山。
過去のことでもなく、遠い余所の国のことでもない、今現在の日本の光景として。

それは、殺処分された犬猫の死体。
これとそっくり同じです。
寸分違わない。

→野良猫の避妊・去勢、被虐待猫の保護、飼い主探しなどの活動をされているゆきももこさんの「ゆきももこの猫夢日記」にて、記事「殺処分数を減らすためには不妊手術の徹底が一番大事」として、殺処分の現状を伝えてくださってます。残酷な画像がありますのでご注意ください。

 ’11.3.30追記。↑の記事のさらにモト情報、「アニマルクラブ石巻」による「不要犬猫レポート」は処分に至るまでの犬猫たちの様子(とても惨い画像なのでご注意)まで、まんま「夜と霧」そのものです。


「夜と霧」を観て、どうしてこんな酷いことが、とか訝しく思えるのはそれが遠い余所の国の他人の大昔のことになっちゃってるからなんじゃないか。

どうしてもなにも、虐殺は実際に行われていて。
犬猫殺処分に限らず、抑圧や弾圧や虐待や虐殺は、今、身近で行われている。
そして、そのことを全然知らずに生活してゆくことができてしまう。
知らないで居られる。

たぶん、ユダヤ人虐殺も、一般の“普通の人”は知らなかったんだと思う。
ユダヤ人だけでなく、ロマ、障がい者、ゲイなどのセクシャルマイノリティも含めて、多くの人が居なくなるのはどういうことか、ちょっと考えればすぐわかるはず。
でも、知らないで居られることが可能なら、知らないで居ただろう。
犬猫殺処分の現場を知らないで居られるわたしみたいに。


そういう状況、仕組み、構造、社会の中で生きていることを意識せずにいながら「夜と霧」観ても脅迫されてしんどいだけ・なんか考えたつもりになるだけで、あんまり意味ないんじゃないか、とか思った。

どうしても、「あくまでも遠い余所の国の昔のお話です」というふうにしか見えなかったです。





タグ:映画 夜と霧
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「CURE(キュア)」「カリスマ」 [映画]

お気に入りの名画座・早稲田松竹にて黒沢清監督作品二本立て。
いやー、なんかいい運動した!みたいな、ほどよい疲労感が気持ちよい、見応えもりもりな充実感でござった。
決して後味のよい話ではないのに、なんかこう、妙に胸がすく。せいせいする。


「CURE」



なるほど、「虐殺器官」(伊藤計劃/早川書房)ってここからも来てるのかー。

構図とか、光のまわり具合とか、画ヅラがかっちょいい。
特に建造物の捉えが、構築的というか空間的というか、ゴン・ガツン・ガシンガシンて感じ(どんな感じだよw)で迫ってくる。
重くて密度のある造形で聳える。

廃墟・廃屋・廃工場みたいな場所がミョーに魅力的でほとんど官能的といっていいくらいなうっとり感。
石、コンクリ、鉄骨とかのガサっとした質感も繊細な光線のあたりぐあいに映えて冴え冴えとかっちょいい。
そういう官能とか冴えたかっちょよさは、実は死体の描写にもほの見える気がする。廃墟になった人体という建造物、みたいな。

萩原聖人のいかにもなヤバい人感とか、役所広司のイライラカリカリ葛藤する感、うじきつよしの安定したフツーの人感、女房の狂ってる感、医者の医者医者感、などなど、特徴を強調していかにも典型的に○○な人物描写をしつつ、ある場面でふっとその○○な印象を逸脱する言動をひらっと挟んだりする感じが、不穏で異形で不吉で狂ってて、凶悪に怖い。
常人がいきなり凶器をふるったり、狂人がいきなりまともなことを言い出したり、一貫して継続するであろうと予測していたものごとが裏切られる怖さ。いったい何が起こるか、まったく予想のつかない恐ろしさ。
とはいっても突飛すぎて納得しがたいってことではなく、むしろ凶事が起こった際の、ああやっぱり、な感じにも怖気。何が起こるか予想し得なかったはずなのに、やっぱり、って得心してしまう、むしろそれが起こることが必然であるとさえ思えてしまう。

ラストはさらなる凶事の幕開けを示して不吉極まりないんだけど、なんだか妙に爽やかにふっきれたような印象も感じられて、気分は悪くなかった。つか、気分いい。
全力疾走した後みたいにふーって息を吐いてみたりした。



「カリスマ」

こちらは樹影の成す光のコントラストが印象的。
これも上述の、建造物ガシンガシンな捉えが、樹木や森の空間にはたらいてるんだと思う。非人間的に冷徹に冴えてかっこいい。

双方が生きる道はないのか、っていうのはアシタカですかね?
生きようとする力と殺そうとする力の拮抗。
全体のために一部の犠牲は致し方ないのか、それとも一部には一部の生きる権利があるのか。

あるがまま。森全体なんてないし、一本の特別な木なんてものもなかったんだ。
ていう悟りは、非情で冷徹な世界に身を晒そうとする姿勢に見える。

世界の捉えの厳しさは、画の厳しさにも表れてるようにも思う。廃墟・廃屋=世界、みたいな。
廃墟・廃屋というのは人が居なくなって顕われる建造物で、そこには人の居なさ、人との関係なさ、みたいな佇まいがあって、そして、世界は廃屋のように人の居場所など備えず、人と関係なく、ただ、厳然と在るのかもしれない。
そこにあるがまま、身を晒そうとすること。

ちなみに、頭をハンマーでごーん、ていうのは、不思議にワクワクした。ワクワクっていうか、萌えた。
神経症患ってた頃、慢性的な頭痛や、頭蓋の中に蜘蛛の巣とか綿埃とか石綿みたいなものがみっちりぎっしり詰まってるみたいな不快感に悩まされてて、自分の頭をぐしゃーっとどぱーんとぶっトバ潰したい、とか思ったのを思い出した。



黒沢清作品で初めて観たのは「トウキョウソナタ」なんだけど、これんときはもうねー、あまりにもアレな不当解雇っぷりとか労働法制の抜け作っぷりとか大嘘過ぎるハロワとか家父長制全開オヤジとか、いちいちカンに障るツボが多過ぎ、ムカついてちゃんと観れてなかったかも、と思い至ってみた。
○○っぷり、みたいな特徴を極端に描写する文脈がわからなかったので、嘘インチキに見えちゃってたし。

「CURE」とか「カリスマ」を経て、「アカルイミライ」の“君たちを許す!”とか“GO”のサイン、「トウキョウソナタ」の家族と世界の再生のラストシーンへの流れを思うと、なかなかグっとクるもんがあるかも。

けして甘くはない、厳しく冷徹に諦念を備えながらも、儚く希望を抱いて世界と向かい合う姿勢が視えてくるように思うのね。
そして、世界の捉えが厳しければ厳しいほど、その希望の儚さがかけがえなく胸に迫る。


イイもの観た。よかった。








コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「バベル」 [映画]



これは、公開されたときに観とくんだったかなあ、と珍しく後悔。
先般、映画を切り口にゼロ年代への感慨をめぐらす、みたいな記事を書いたりしたけども、「バベル」もそこに入れたい、と思いましたのです。

つか、公開時は菊池凜子の扱いが大騒ぎされ過ぎ、興冷めして観てなかった。あんまりゴシップ的な話題が先行してると、鑑賞というより好奇心を満たす為の見物に堕してしまい、作品として観られなくなる感があって、もう覿面、へなへなに萎えるのよな。
そういう訳で、菊池凜子もフツーの役者として観られるようになった、という意味では、適したタイミングではある。個人的に。


他者に直面するということ。どうしても理解できないものごとや人物や出来事や世界があって、否応なくそこに直面させられる、直面せざるを得ないこと。
みたいなことを、新世紀初頭に観想したわけなんだけども。

「バベル」は、そのことに対する畏怖と痛みに満ちている。
膨大な厚さの孤独が迫ってきて、重量と質感が肺と心臓を圧する。
それでいて、その孤独に耐える、耐えようとする人の姿に感じ入る。
絶望的に如何ともしがたい、圧倒的なものに、小さく弱いものが何も持たずに、裸で向かい合っている、その姿。佇まい。
熱く湿った小さな子どもの手で、ぎゅっと掴まれる感触のような。
相手が何か言おうとしているのにうまく言えなくて、汲み取ってあげたいのに及ばなくて、互いに諦めて噤んでしまう沈黙のような。
そんなような、感慨、を得た。


言葉が通じる者同士が伝わらず、言葉の通じない者には伝わる。
言葉が通じないからこそ伝わる。
それは、妻を助けたい切実な思い、とか、必死さ、とかそういう、伝える意志の強弱とかの問題ではなくって。
アメリカ人だとかモロッコ人とかメキシコ人とか、聾だとか聾じゃないとか、夫とか妻とか父とか娘とか、そういう背景や属性を抜きに、どれだけ向かい合えるか、ということ。
例えば苦しんでいる相手が居て、その人の国籍や年齢や所属に関係なく、ただ苦しんでいる、ということだけを、どれだけ受けとめられるか、どれだけ応えられるか。
どこかの誰か第三者ではなくって、わたしの相手、二人称のあなたが、紛れもなくわたしに助けを求めている相手が居る。どれくらいの強度でそのように思えるか。
ていうようなこと。

言葉はコミュニケーション手段ではなくって、むしろそれを阻害する。
この映画が「バベル」と題されるのは逆説的でキいてる。


日本のエピソードは一番刺さった。
チエコの貧相な裸形は、ひどく餓(かつ)えて痛々しく、剥き出しに孤独が絶叫していて、とても堪えた。
お話的にモロッコやアメリカ~メキシコのパートとあまり噛んでないように思えたけど、これがなかったらまるで印象が違ってた気がする。

電話しながら泣き崩れるブラッド・ピットの姿にも掴まれた。
言葉に代替しがたいものを抱えるときに、言葉しかない。

途方に暮れる。

せめて、抱きしめたい。
あなたを。
世界を。





タグ:映画 バベル
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「小さな恋のメロディ」 [映画]




これは、眩すぃ…。
眩しい映画だな。

画もきれい。光の加減が美しい。
オープニングの夜明けの風情でグッと掴まれる。
街の風景や、じゃれ転がる少年少女の情景とか、活き活きしてて魅力的。ごく自然に日常が切り取られてる感じ。
音楽も印象的。聞き覚えのある楽曲も多くって、そっか、この歌はこの映画であったか、って今さらな感慨。


少年少女の純な恋が眩しいってよりも、その貫き方が眩しい。
例えばこれが恋ではなく、ロックバンドやりたい、とか、世界を旅したい、とかだったりしても眩しさは減じない。
減じないけど、うん、恋ってところがよいな、やっぱり。
まったく理屈じゃないから。
そして、とても他愛ないから。
他愛ないがゆえに、切実に、抑えようもなく、求めるから。


オトナのクソ理屈で言うなら、
・判断力の未熟さ幼さによる一時の衝動・気の迷いであるからして直に醒める、将来を考えるならそんなものに懸けるのは愚かなこと。
・また、未成熟な若者は、今はひたすら勉学に励み、社会のよりよい構成員となるべく研鑽に邁進すべきなのであり、そのような余計な懸案に時間を割くべきではない。
・フィジカルな成長変化の著しい時期であることから、欲望と情愛の判別がつき難いと思われる。適切な手段で欲望を処理すべし。
みたいなことになる訳だが。
うん、立派なクソ理屈だ。
それにしてもコレ↑書くのがものすげえ容易で嫌になった。10秒でありとあらゆる言い回しの文言がばんばん思いつく。言う人の顔まで思い浮かぶ。

理屈は理屈だし、間違ってるわけじゃない。
場合によっては、こういう理屈を大変クールに思えたりもする。
だけど、なんか猛烈に苛立つのは何故だ。


橋本みつるの漫画で「GET DOWN」「世界を止めて」(白泉社「GET DOWN」所収)ってのがあって、衝動的に駆け落ちというかプチ家出というか、どっか行きたくなる衝動に任せまくる高校生ふたりが主人公なんだけど、その感じが思い浮かんだ。
このふたりには理屈も理由もなくって、ただどっか行きたいっていう衝動だけなんだけど、その衝動が狂おしいほどに切実。

「夢を見る人」(ソニーマガジンズ「夢を見る人」所収)では、夢を追って家出する青年を、眩しく見送る女の子が出てくる。
その子が言う。

幸せになって
絶対忘れない
凄く祈ってる(p.54)

どうぞ誰にも捕まらないで
思ったとおりに 生きて
          生きて(p.61)






 



コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「鉄コン筋クリート」 [映画]

年末年始、TOKYO MX TVの映画セレクトは「鉄コン…」他に「人間の証明」「小さな恋のメロディ」「犬神家の一族」「バベル」などなど、なんかシブいつーか粋なラインナップで、もりもり録画して堪能しておるわけなのでした。




街の描写がえらいこと凝ってて、すっかり見惚れましたですよ。
細部まで描きこまれた濃密な描写。ディテール。
あんまり細かい描写って、ミニアチュールみたいなこぢんまり感と言うか、特にこういう猥雑な街並みの描写ってせせこましくなりがちなんじゃないかと思うんだけど、そういう、小さく収まってる感は皆無。
路地裏の下町風景だけでなく、港湾に面した工業地帯や寂れた廃墟廃屋、あるいは現代的な都会の喧騒、と、印象的な風景がいくつもあって、また、その風景が提示されるリズムが巧みな感じ。街の活力・生命力を感じられるような。
お話の場面場面に噛んだ風景であるのはもちろんのこと、場面や風景が切り替わるたびに新鮮な感慨があって、観てて飽きない。どんどん街に入り込める。
また、人物の超人的な跳躍に伴って、大胆な俯角にアングルが巡り、疾走感も加わって、街のダイナミズムというか、生きた街がどどんと眼前に迫ってくる感じ。

お話としては、あんまし好きではなかったです。なんかこう、もにょる。
誰かを守ってるつもりでいて、その実、守られてる。誰かのために行動することが自分のための喜びとか生きる希望に繋がってる。っていうのは、わかるんだけど、クロシロの“二人でひとり”みたいなあり方が共依存キワキワに思えて、否定したくなる。
後半のクロが、ダークサイドに堕ちるか否かの葛藤、みたいなんもあんまし感心せず。なんか古臭い。
画ヅラとか描かれっぷりはイイんだけど。

ただ、エネルギーに満ちた大盛りメガ盛りギガ盛りな街の情景と、常に死亡フラグ立ちまくってるようなヤバさ加減がすっっっっっごく合ってて、そういうイカレた感じにはveryべらぼうに痺れた。
なもので、妙にセンチメンタルにしんみりされると、なんだかなあ、って困ったりもして。






コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「トロン:レガシー」 [映画]




’82年の「トロン」も予習して観に行きましたです、「トロン:レガシー」。3D吹き替え、IMAXシアターの大画面鑑賞。
3D上映で観るときって、字幕だと疲れる気がすんのね。やっぱり立体映像って見慣れないから、それなりに集中力が要るんだと思う。

いやこれはね、「きんもちええ~」です。シャキーン!のあの歌で発語したい。
画が気持ちいい。カッコいい。快。
シューッ!とか、シャッ!とか、ピピッ!とか、ピューン!、とか、子音s音とp音が炸裂しまくる気持ちよさというか。
シャープでスタイリッシュでスピード感疾走感全開で、エッジが冴えてクリアに明晰な映像がすっごく気持ちいい。
音楽もクールで研ぎ澄まされててかっちょいい。ベース音の重量感が堪らん。
“グリッド”だけでなく、現実世界の画ヅラもキレイだった気がする。ボケあしがキレイ。シャキッとピンが合ってるとこと、きれいにボケてるとこのバランス加減が気持ちいい。
街並みや、サムのガレージハウスやフリンのゲーセンなんかもいい雰囲気。

お話的には…、なんか、うーん(笑)。
27歳にしちゃ子どもっぽ過ぎないかいろんな意味でサムくん、とか、完全カンペキな世界を目指してる割には抜けまくりなクルーさん、とか、タイトル背負ってる割には全然お話に噛まないトロンくん、とか、いきなりアイソーとか言われてもさー、とか、またナゾのユーザーパワーが(笑)とか、つかそもそも質量保存の法則が、とか、いろいろとツッコミたくはあるんだけど、なんかもういいや。カッコいいし。
とりあえず、デジタル世界の設定があんまし意味なくって、単に「異世界」っていう捉えのファンタジーだと思ってみればいいのかなー、とか思った。

主人公がうっかり(父を追って、と言うよりついうっかり、て感じだったw)飛び込んでしまう “グリッド” は、デジタル世界であるはずなのにリアル志向というか、密に詰まってしっかり存在感のある世界観で、へえー、と思った。逆に’82年「トロン」はデジタルっぽさ全開だったからさ。
あんまりデジタルっぽくないっつか、そういうデジタル世界っぽさってどうしてもゲームっぽい画ヅラになるんじゃないかと思うんだけど、ゲームっぽい感じがあんまりないのね。
サムが戦いを強制されるゲームの場面でも、所謂TVゲームっぽい感じはしなかった。
もっとも、生活感漂うってほどのリアルではなくって、クリーンでスタイリッシュな、インテリア雑誌のグラビア的なつくりもの感ではある。
“グリッド”内の、市街や建物、設備や、父ちゃんの隠れ家インテリアなんかは、建築・インテリア雑誌にまんま載ってる感じ。
父ちゃん隠れ家のインテリア、電子光の粒が炎代わりの暖炉とか、透明アームのロココ風チェアとか、ニクいなあ。
ガラスや金属やピカピカな素材が効果的に使われてて、小物も凝ってて、もう、遠慮なく躊躇いなくカッコいいです。

擬人化されたプログラムである登場人物が着てる、ぴったりしたスーツもファッション的にかっちょいい。
これも、デジタル・プログラムっぽさじゃなくて、普通にボディ強調。胸板の厚さとか頑健なボディ、またはバービーみたいなトルソや長い脚を強調してる。
ネオン管みたいな光るラインも、デジタル世界のビットとか情報の行き交いを思わせるというよりは、ボディライン強調。
’82年「トロン」のキャラクターを継承するにしても、もっと極端に体型をデフォルメしたりCG効果で飾りをつけたりとか、いくらもデジキャラっぽくできると思うんだけど。あ、怪我してる人物の怪我部分がギザギザに欠けてて、あーいうのはデジっぽかった。
スタイリッシュでかっこよくって、埃とか汚れとかほつれたり破れたりもナイ、メイクもヘアスタイルもキメキメ、ファッショングラビアの国のオシャレ衣装とステキモデル。
サムが“グリッド”でゲームの為の身支度する場面、壁からサイレンていう女性たちがモデルウォークで出てくるとことか、ショウみたいで華々しくカッコよかった。
ゲーム場面のアクションとか負け戦士がキューブ状に砕けて壊れるさまなんかもモデルのポーズみたいな感覚で観てた。あれがもう気持ちいいんだわ、ガッシャーンて砕けるの。スカッとする。

ライトサイクルの光跡たなびかせるレースのシーンも、きんもちええ~、でした。スピード感、疾走感が堪らん。音楽にも高揚、PV的にもカッコいいかも。BGVにしたい。
あのマシンは、鑑賞後に「AKIRA」の影響がどうこう言ってる人がいて膝ポン。なーるほど。
でも実は、ドゥカティの方がカッコいいと思った。

そんな感じで「トロン:レガシー」はSF風味ハイセンスオシャレの国での冒険ファンタジーでした。


’82年「トロン」では、“グリッド”は文字通り、緑色の格子が真っ黒い背景に地面をつくりだしていて、コンピュータ画面を思わせる薄さ、ゲームっぽさ、奥行きのない、いかにもなデジタル世界で、それはその時代なりのデジタル情報世界のイメージを表してたのかなあ。
モノクロ撮影+手彩色でつくったという、あの特異な画ヅラは今観てもオリジナルでおもしろい。どんくさいけど、あれはあれで世界観できてる。
お話的にも、デジタル←→現実な行き交いがあって、“グリッド”世界の圧制者MCPをやっつけることで現実での社内政敵デリンジャーを失脚させる、てふうに繋がってて、デジタル化・情報化社会ていう設定をうまくつかってたと思う。ユーザーパワーはアレだけど(笑)。

で、「レガシー」ではそういうデジタル←→現実な設定はイキてないのよな。
今となってはインタネットも絡めてもっと生かせる設定もありそげな気もするんだけども、まーでも難しいのかなあ。







コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「時計じかけのオレンジ」 [映画]




気持ち悪くて吐きそう。胃にクる。

画ヅラや映像の動きは気持ちよくって見惚れる。どことなく品があるほどに。音楽も鮮やか。
で、そういう、ビューティフルな描写自体がものすごく気持ち悪く感じるのは、いったいなんなのだろうなー。

主人公が暴力をふるうさま、さらにはそれを楽しむさま、そのことが気持ち悪いんじゃない。
そもそも暴力って楽しいもんだし。自分の力を存分にふるえるのは快楽でしょう。
そしてその暴力が、本人の意思や情動に基づかないやり方で無理やりに矯正を施される、まさに暴力が暴力で矯められる、それも別に気持ち悪くはない。
酷いことだけど。

その果てに、人として大切なものを失う主人公の姿。それこそはおぞましい。
狂ってる。それも、とても冷静に、理性的に狂ってる。
「狂人とは理性を失った人のことではない。理性以外のあらゆる物を失った人である」(G.K.チェスタトン著作集〈1〉正統とは何か (1973年))という、チェスタトンの言葉があるそうなんだけど、なんかそれを思い起こした。
自分が何を考えているのか何をしているのか、そしてそのことが他者にどのように影響するのか、きちんとわかっていて、なおかつ、そのことにいっさい何にも感じない、そんな酷さ。
とても惨いやり方で大量の人や生きものを殺傷する方法や兵器を考えたりつくったりする人のような、狂った賢さ。


そしてやっぱり、その描かれ方が華々しく気持ち悪い。
有毒の材料でこしらえられた、ものすごく美味しそうな料理、みたいな。
凄まじい悪臭がするのに、ぴかぴかにデコレートされ、慇懃な給仕にすまし顔で仰々しく供される、みたいな。
そして、有毒と知りながら、しかも有毒だからこそ、その皿を美味そうと思ってしまうことが、そういう自分のことこそが、激しく気持ち悪い。







コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「ウォー・ゲーム」 [映画]



うわー。ばりばりに冷戦真っ只中な雰囲気が懐かしいというか、今となっては新鮮、というか。
カクカクした見た目のコンピュータ端末が愛い。昔のキイボードとか結構好きなのよな。キイがでかくて押しが深めな感じのやつ。

学校のコンピュータに侵入して成績を操作しちゃったりするような、小器用で軽薄な主人公デビッド少年が、ついうっかり米軍の防衛システムに侵入しちゃって、しかもそれがゲーム会社の情報を漁っててうっかり、っていう浅はかさ。いかにもな今どきの若者。
ゲームだと思って対ソ連全面核戦争のシミュレーションに手を出してしまい、それを真に受けたWOPR(War Operation Plan Response)ていう人工知能プログラムは、全面核攻撃を受けたと判断してマジで報復しようとしてしまい、止めだてに軍もひっかきまわされる。
本当の本気で米ソ核戦争=第三次世界大戦に至ってしまうのか? 回避する手立ては如何に? という緊迫のハイテク・サスペンス(当時)。
コンピュータ・ネットワーキングの幕開け時代、なんでもかんでもコンピュータ制御で電子情報などの観念ばかりが先鋭化してしまう危険に警鐘を鳴らす、的なテーマですかね。

今観ると、そんな簡単にハッキングできんのかよー、とか、いくらなんでもシミュレーションだって気づくだろうよ、とか、いろいろとツッコミどころは満載なんだけども、それなりの緊迫感、え どうなるのどうなるのそれ、て観させられる雰囲気はある。小僧一人に翻弄される軍が相当間抜けなんだけど、そのユーモラスなほどの間抜けぶりも状況のヤバさに繋がる感じ。
いろいろと小器用なデビッド少年がおもしろくって、暗証番号式のドアロックをありものの道具で破ってみたり、公衆電話の受話器をいじって無料で通話してみたり、へーそんなことできるんだ、ていう細かいワザのディテールが、リアルさの積み重ねに至ってるのかも。
それはそうと、フォルケン教授が実は生きてました、とか、人類は滅亡するのさ、諦めなよとかニヒったりするところって必要なんですかね。ていうかフォルケン自体要らない気がする。

ところで、このお話のオチのつけ方が結構好きです。
戦略AI、WOPRは、核ミサイル発射のための暗号入力に勤しんで今にも全面報復、っていうぎりぎりの瞬間に、報復しても攻撃しても誰も何も得るものはない、と悟るに至って報復攻撃をストップする。
WOPRいわく「つまんない」(笑)。
情動を理解せず、論理的に思考するAIに「戦争は無意味でつまんない。勝者は居ない」て言わせるセンスは好き。








コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。