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アントニオ・ロペス展 [展覧会、イベントなど]

アントニオ・ロペス展公式webサイト

張り切っていきなり初日っから観に行っちゃったぜ。
だって最近の展覧会ってすんごい混むんだもん。NHKの日曜美術館とかで紹介されるとすぐ行列できんだもん。(とはいえ、わたしも日曜美術館の展覧会情報チェックしちゃうんだけどな。)


「マルメロの陽光」ていう映画があって、その映画で知った画家。
アントニオ・ロペスはマドリード・リアリズムといわれる写実の作風の一派の主要な作家と目されていて、そのマドリード・リアリズムつながりで磯江毅にも興味を持ったりした。

このマドリード・リアリズムの背景というのもおもしろくって。
どうやらフランコ政権によって文化的に情報が閉ざされた時代があったそうで、結果、キュビスムとかシュールリアリズムとか抽象やパフォーマンスアート、ポップアートなんかの影響を受けなかった、ってことが要因のひとつとしてあるらしいのですね。
確かに、ひと頃は“もう具象とか古い”“抽象にあらずんば芸術にあらず”くらいの勢いで抽象表現が席巻してたようなこともあったかもなー。
で、そういう勢いから外れた場所で静かに古典的な写実が引き継がれていた、ということらしいです。

なので、マドリード・リアリズムと称されつつも、“主義”“イズム”みたいな主張する感じはあんまりしない気がする。
(いっときは、先進の表現から取り残されたガラパゴス的な芸術家たち、みたいな呼ばれ方でもあったらしいし)
でもだからって古典古典してるわけではない。


アントニオ・ロペスの作品は、ものすごーく何年も時間をかけて対象を視て描かれているだけに、時間に漂白されたような感じがする。
うつりかわる時代・社会によって見方が変わる景色や風景の、そのうつりかわるものを越えた普遍的な景色になっている、というか。
変わらないものだけを抽出しているというよりは、うつりかわっていったものをも抱えた変わらないもの、として描かれてるように見える。
今視ている景色の中には、かつて消えていった景色があって、今視ている花の中には散ったり実ったり枯れたりした花がある。

死を内包する生の姿。みたいな。
怖い、というか、畏れのようなものを感じないこともない。
鉛筆のみで描かれた、ドアを開けて覗く構図の部屋の絵なんか、ちょっとドキッとした。でもちょっとだけ。
そういう仰々しい印象じゃなくって、印象としてはなんかこう、「無」なのね。
で、「無」の中にすべてがある感じ。


描写は不思議に軽やかな印象を受けた。
軽やかっていうとなんか違うかな。重くない。クリアで鮮やか。
初期作品なんかはこってり絵の具を盛り上げてごちごちざらざらの重厚なマチエールをつくってたりするんだけど、手間暇や観察に込められた情念みたいなものを感じないつーかな。

画家は透明になってる。対象へと向かう視線だけになって、自分は居なくなってる。みたいなふうに見える。


印刷やweb画像で観たときと印象がずいぶん違った。
分厚い絵の具の層はかけられた手数や時間を感じさせ、ごっちり重量のあるマテリアルな物量感。それがクリアな光線や鮮やかな描写を邪魔しない不思議なバランス感。へーえ。

描写は詳細なようで、そうでもない部分もあり、わりと大胆にざっざか描いてる中で、押さえるべき線、加えるべきタッチがぴたっと入る。的確さが気持ちいいくらい。
きちきち定規で測ったりしてるとことか、作品によっては職人的・技巧的で、制作途中のでっかい風景の絵なんかは銭湯の富士山ペンキ絵みたいな印象が感じられないこともない。


その感じは芸術性を損なうとかそういう意味ではなくって、そもそも芸術=自己表現ていう概念自体がごく近代からの考えであって、で、そういうアプローチ以外のとこから来てるってことで。
表された色や形や質感が、表された色や形や質感以外/以上のものではなく、風景なり人物なり静物がただそこにある。
そしてただそれがそのまま描かれているということに、いろいろな感慨(人によって違うだろうし、観る気分や環境によっても違ってくる)が感じられたりする。

磯江毅の絵では、(ものや人が)存在するということが大変な奇跡なように思える、という感慨があったけれど、アントニオ・ロペスの絵には、常に新鮮な驚きがある感じ。
長い時間みつめ続けているのに、初めて視るみたいに印象が鮮やか。目が馴れない。
すごく驚いて、おもしろがって楽しみながら描いてる感じ。


すごくよかった。もっかいくらい行こうかな。
「マルメロの陽光」ももっかい観たいんだけど、どっかで上映しないかなー。






浦和宿ふるさと市でハジける [展覧会、イベントなど]

浦和宿ふるさと市ちゅー骨董市に行ってお買い物にハジけてみた件。

狙いは着物だったんだけど、陶磁器とか古道具とか旧日本軍モノや昭和雑貨、みたいなんもいろいろあった。
刀剣装飾の専門店はおもしろかったなー。刀の鍔(つば)とか目貫(めぬき)がいっぱいあって、ぱあ〜♡ってなった。目貫って小さいのに凝ったものも多くて、ちょっとしたブローチとかアクセサリーによさそうで惹かれます。


で、戦利品披露。

IMG_4988.jpg
薄紫の羽織と花柄の袷。どっちも各500円。ごひゃくえん。ひゃー。
とはいえ、帰ってよく測ってみたら羽織は袖丈も裄も短く、花柄ちゃんは背中ら辺に染みがあったり、やたら身幅が狭かったり、羽織ってみたらびっくりするくらい似合わなかったりすることが判明して笑った。でもどっちもごひゃくえんだしな。ほどいて材料にするとして、生地代として考えても安い。
当然、パッチワークの材料探しに来てるっぽい人が結構居た。


IMG_4990.jpg
濃紫の袷。ちりめんぽい細かいしぼの風合いな長着で、なんと200円。
葡萄の染め帯、1500円。ちょい染みや汚れがあるんだけど柄出しでなんとかなりそうかなーと思いつつ、帯芯が固めだから替えたいなー。


IMG_4993.jpg
紬の一重帯、朱色のやつは500円。グレーのコは2000円。
朱色は今ひとつ何に合わせるかイメージ涌かないんだけど、バッグとかつくってもいいかなーと思って。帰ってよく見たら全体に濡れた後みたいな染みがあったんで、上から色かけて染めてみてもおもしろいかもしれん。グレーのコは超便利そう。無地のままも合わせやすくてよさそうだけど、刺繍とかアップリケとか加えても楽しそうだ、って、いつやるんだよやりたいこと多過ぎ布地とか材料貯め込み過ぎなんだよなーと自分ツッコミつつ、ごひゃくえんにひゃくえんとかいわれると飛びついちゃうよな。これハマると大変だ。



今年も戸隠詣で [展覧会、イベントなど]

以前も書いたけど、シロタ家は毎年戸隠に行きます。我々にとっては既に「ただいまー!」ってくらいなフルサト感満載な場所。

しかし、その我が戸隠が2010年あたりから激混み観光地になってしまいましてな。たぶんその年のJR東日本の広告(吉永小百合のやつ)やらパワースポットブームやらの影響だろなー。

当の2010年なんかは、奥社の参拝に2時間近い行列ができたとかで(しかもてっぺんの山道で。あんな道の悪い山道で行列なんて悲惨)、人混み嫌いのシロタ家はその年の参拝は諦めたのでした。
つーか、そのときは駐車場の交通整理おじさんも殺気立ってて大変そうだったなー。あんなんじゃパワースポットというよりもパワー吸い取られスポットだわ。


なので、シロタも戸隠記事とか書かないようにしようかなーと思ったのですが、とりあえず混むよという情報をお伝えしようかと思った次第。

10月連休の戸隠はホントーに混むよ。激混み最混みだよ。行列だよ。
戸隠はいいとこだけど、人混みとか行列は素敵じゃないよ。殺伐とするよ

その最混み時期にはシャトルバスが運行され、車はちょっと離れたスキー場に止めてバス移動が推奨されてます。
鏡池は時間を限って車が通行止めになるのでシャトルバスか徒歩のみ。(詳しくは戸隠観光協会webサイトにて要確認)
有名な蕎麦屋(“そばの実”とか“うずら家”とか)は、もれなくン時間待ちとかの大行列ができてました。



でも戸隠の混雑は時間的・空間的に集中しちゃってるせいなのね。
混むのは中社、鏡池、奥社、有名蕎麦屋くらいなので、あんましそこばっかに集中しなければよいのですわ。


前にも書いたけど、オススメは戸隠牧場。


IMG_3108.jpgIMG_0808.jpg
どうだねこの景色。動物目当てでなくても、広々と開けて景色がキレイです。散歩が楽しい。
晴れると戸隠山が素晴らしいです。すぐ真近くに山!って感じで迫力。


IMG_2386.jpg
併設のカフェのケーキやピザも美味です。↑写真は自家製ソーセージのピザ(そば粉入り)。



IMG_2378.jpg蕎麦屋に行列すんのはナンセンス。戸隠蕎麦はどこで食べてもおいしい。
地域全体のクオリティの高さが戸隠蕎麦の凄さだと思う。
中でも、“山口屋”と“そば博物館とんくるりん”は駐車場が広く、団体客とか大勢の客をさばくのにわりと慣れてるから、比較的並ばない&待ってる間も土産物とか冷やかして時間つぶせる。
“とんくるりん”の近くにはちょっと登れるとこがあって(夕日展望苑とか言うらしい)、天気のよい日は北アルプスが眺められるし、超長い滑り台もあるぜ(子どもさん大はしゃぎ)。


写真はシロタ夫お気に入り某店の冷やしたぬき蕎麦。揚げ玉がカリカリサクサクで時間たってもふにゃふにゃにならないの。



というわけで、時期・時間をずらす、他の場所を観にいくなど、一カ所に集中しないでバラける方向で楽しみましょうぜと申し上げたい。


戸隠はいいとこです。


タグ:戸隠
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特撮博物館 [展覧会、イベントなど]

特撮博物館@東京都現代美術館→公式webサイト

終了間際になってようやく行ったぜ。
いやー濃かった濃かった。


特撮用の模型は、質感も重量感も精巧でスゴい。楽しい。
けど、やっぱり撮影してこそリアリティを発揮するものなので、激しく撮りたい。
しかも、この角度から長いレンズでごく一点にピントをギリッと合わせてそれ以外をふわーっとボカして撮りたい、とか、もりもり具体的に撮りたい欲発熱過熱。

結構古くて知らないものも多かったし、模型だけでなくって撮影されて完成した映像も観たかったなー。
マイティジャックかっけー。めっさかっけー。
「惑星大戦争」とやらも観てみたいなー。
ここいらの'70年代くらいのSF特撮ものは、なんだか見覚えがあるというか、親しみを感じるのだけど、たぶんスタートレックやスターウォーズあたりに影響を受けてるのかなー。


ウワサの巨神兵は大変なクオリティで、ひたすらキショく怖いでござる。子どもが泣くレベル。ていうかわたしが泣く。一歩でも動いた日には腰抜かしてチビる。

で、特撮技術を駆使した「巨神兵、東京にあらわる」は映像に被る主人公ぽい女の子の語りがめたくそウザいものの、東京市街破壊シーンはさすがの迫力でビビった。
同時に、ぼっこぼっこぶっ壊される様が気持ちよくて気持ちよくて、行け行けやれやれやっちまえ、と血が滾ったりもして、どーして破壊とはこんなに楽しいのでせう。
まあ自分のものが壊されるわけじゃないし、つくりものってわかってるから安心して楽しんでられるんだろうけどな。
ラストシーン、巨神兵が何人も横並びで杖みたいなのを持ってずんずん歩く例の場面、「風の谷のナウシカ」冒頭の火の七日間シーンが再現されてて、このままナウシカ完全版になだれこんだりしたいのかなーとか思ってウケた。

「巨神兵、東京にあらわる」の撮影舞台裏、撮影や特殊効果の技術紹介もねっちりやってくれてて、種明かし的におもしろい。


で、やっぱり実際に撮影しまくれる街のセットが展覧会の白眉。
とりあえず火ィ噴いてみました。ぼーっ。


ぼぼっ.jpg
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松井冬子展 [展覧会、イベントなど]

「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」於、横浜美術館。→公式webサイト

展覧会タイトルの「世界中の子と友達になれる」は、藝大の卒業制作のタイトルだそうな。
子どもの頃、いろんな子と友達になり、どんどん交友が広がる経験から、こんなふうに世界中の子と友達になれる、と確信を抱いたものの、長ずるにつれ、実際それは無理なことだと悟る。
ただ、その確信を抱いたことを強く覚えていて、それは妄想であり狂気に通じるものなのではないか。ていう掘り下げから制作された作品。
松井の出発点というか、起点になる作品であるらしい。

密集して垂れ下がる藤の花の房、左側に少女が花房をくぐって誰かに呼びかけるような動作をしていて、右下には空っぽの揺りかご。
ぱっと見、幻想的に満開の花の中、揺りかごで眠るべき子ども・少女の妹とか弟にあたる赤ん坊を探して隠れんぼ、みたいな、美しい風景にも見える。つか、そう見えた。蜂に気づいてなかったもんで。
が、近づいてみると花にびっしり蜂がとまっていて、黒々としているのに気づいて、ぎゃーっ、て慄いた。
少女の手足は赤く染まってて、血を思わせる。
いったん気づくと、画面を埋め尽くす藤の花が遠景を妨げて塞いで閉じこめるみたいだし、ただならぬ緊迫に満ちた恐ろしい光景のようにも見えてくる。

で、この、「気づいてぎゃーっ」て感じは、世界中の子と友達になれる、ていう子どもの全能感が醒めて、世界はお前のものではない、と思い知らされる瞬間に近いものがあるのかもしれない。全然違うかもしんないけど。

気づくのはつらいことかもしれないけど、子どもの全能感=妄想=狂気から醒めないのは、グロテスクなことであろうな。


他の作品も含め、全体に、観ていて痛いというか痛痒いというか、身体的な痛さ、皮膚にクる感じで痛い。
しかも、皮膚を擦られるようなヒリヒリとか、刺されるようなチクチクとか、骨まで達してグリグリ肉を割かれるような激痛とか、さまざまな痛さのバリエーションが揃ってる感じで具体的に痛い。

同時に、なんか清々しいというか、妙に胸がすく。復讐を遂げた後の気持ちって、こんな感じじゃないのかな。
あれだ、椎名林檎の初期、「歌舞伎町の女王」とか「勝訴ストリップ」とか聴いたときの印象に近いような気もしてる。

徹底して古典的な日本画の画法が用いられているのも、表面は涼やかに端正でも内心では情念めらめらたぎってる、みたいに感じられて激しい。
肉感的なボリュームで迫る西洋画のばばーんと自己主張!よりも、抑えて控えめにみせるからこそ、情念の強さがより窺われるような佇まい、というか。
洗練に洗練を尽くされ極められた線、純度の高い色彩といった日本画の特徴も、情念の純度を高めているように思う。混じりけのない痛み、情念。


内臓や神経を垂らして晒け出されてたりもするんだけど、そういう様にも、気持ち悪いというよりも、むしろそこまで“晒け出す”“見せつける”天晴れな爽快さみたいな印象のほうが強い。

骨とか内臓とか神経とか、実際の解剖の素描を経て、非常に丁寧に観察されていて、それ自体はグロいもんでもない。
普段は全然意識しないけれど、自分の体にも確かにこれらは収まって機能して自分を形成しているはずのもの、ヒトの身体を成すもの、わたし自身の一部でありながら忘れられているもの。
そういうふうに観える。

痛みとは、自分の身体に復讐されることなのかも。


ところで、そもそも復讐したい=相手に自分の苦痛を味わわせたい、って気持ちは、自分の気持ちをわかってほしい、と共感を求める気持ちなんだと思う。
復讐って言葉の印象は物騒だけど、復讐を求める気持ちそのものは素朴なものなんだろう。

“わたしの痛みを知れ”と言う気持。

で、その痛みをわたしは知っている、と思った。
そして、その痛みこそがわたしを守っている。
子どもの全能感にも似た妄想、限界のあるヒトの身体を持つことを忘れる狂気から醒めさせる。

痛みは、わたしを身体に繋ぎ止める呪詛であり、同時にわたしがわたしであること=自我を守る祝福である。
(けれども、耐えきれないほどの激しい痛みには、しばしばヒトは狂う。)

なんてなことを思ったが、なんか既読感・既視感(汗)。
どっかで読んだ本とか誰かの言が混ぜこぜになってるような気もする。鷲田清一先生の本とか。


古典絵画・幽霊の絵や九相図から想を得て描かれた作なども、日本古来の怨霊とか幽霊の概念や、無常の死生観などをも思わせる。そして、それを現代社会にあてはめて蘇らせるような。
現代の幽霊・怨霊とは何か。
例えば、忘れられた痛み。死にゆく身体。目を背けられ、ないことにされる死。

この作家は本人の容貌が大層美しいことでも有名で、展覧会場でも、こんなきれいな人がどうしてこんな怖い絵を、とか、もっときれいな優しい絵描けばいいのにね、みたいな言も小耳に挟んだりはした。
まあ、そうしていて欲しい気持ちもわかる。痛いのしんどいから。
ただ、このきれいな人は、きれいな人がニコニコ愛想よくしていたり、きれいな人が描いたきれいで優しい絵を観て慰められたりする人たちに向けては描かないんだろうなー、と思う。


ところで、この作家は自作に詳細な解説というか、解読を付けてて、例えば、空の揺り籠は堕胎を意味している、とかいちいち添えられてるのね。
どうも自分で自作を解釈、自己分析・自己言及することも含めての表現であるらしいんだけど、なんかそれはちょっと、どうなのーぅ、という気もする。
なんつーか、種明かし台無し感つうか、観る側の解釈が狭められるような感じがしちゃうつうか。
言葉でこれはこうです、って言えるものなら絵を描く必要なくね? とか思ってしまうもんだから。


ただ、この人の言葉もすごくおもしろい気がする。
言葉の選び方や、難解さと明解さの兼ね合い、語感やリズムなど、イマジネーションを刺激されて魅力的なので、それはそれで詩歌とか文学作品として表されたらおもしろそうだなーとか思った。




タグ:松井冬子
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磯江毅 展 [展覧会、イベントなど]

isoe-iwashi.JPG磯江毅展に行きました。

→練馬区立美術館webサイト「特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」紹介ページへ

→奈良県webサイト「特別展 磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才」奈良県立美術館 紹介ページへ

→彩鳳堂画廊webサイト 磯江毅紹介ページへ




最近、写実絵画専門の美術館・ホキ美術館がオープンしたり、NHK「日曜美術館」でも野田弘志や諏訪敦が特集されたり、写実表現が注目されてるらしいですな。

デュシャン→ウォーホル以降なのかな、現代美術の傾向として、観念が先行する表現が極まって、極端な話「これは絵です」って書いた紙を額縁に収めたような表現にまで行き着いちゃってる感がありますのな。
ていうところで、記号とか言葉に解体されない造形性の追求、その可能性として写実表現、ていうことなのかなあ、と。


で、写実というのは表現の手法・技法でありつつ、また主題でもあるんですよな。
対象をありのまま描く、主観を交えずに客観的に視たまま描く。
と、言葉では単純に言ってしまえるけれど、ここにはすごーく難しい問題を含んでいる。

主観を交えず、っていったって、対象を視る自分、対象を描く自分ていう主観があって、その視線、眼差しはまったき自分である。自分であることからは逃れられない。

また一方で、その主観と信じている自分の眼差しというのも、属している社会、文化、これまで観てきた表現などの影響を受けていて、その影響により対象のうちの何かを視ているし、同時に何かを視ていないかもしれない。
どれだけ対象を視る眼差しが自分だけの絶対的な眼差しであるのか、ていうこともある。

自分が何を視ていて、何を視ていないのか、何を描き、何を描いていないのか。
どこまで視ることができて、どこまで描くことができるのか。


磯江毅の絵と向かい合うと、その問いに真摯に迫る画家の姿勢が感じられる。
とても静かなんだけれど、すごく熱い。修行僧の熱狂、みたいな。

こういうふうに表したい、みたいな、画家の自己表現欲求はない。
むしろそういうエゴを厳しく抑制する強い意志がある。その厳しさを熱いと感じるのかも。

画面にはただ、対象のものや人物がありありと在る。その、在るってことが凄い。
そこにものが在る、人物が居る、ということが怖いほどに感じられる。
存在する、ということが大変な奇跡のように思えてくるほどに。
ほとんど、畏怖を覚える。

例えば、磯江作品が部屋に掛けてあったなら、えっ? て振り返ってしまうと思う。
そこに誰か居るの? みたいな、存在感、気配の濃密さ。
けれども、ものや人物はそこに存在するということ以外に何か訴えたりはしない。

磯江はこんなふうに言ってる。
「表現するのは自分ではなく、対象物自体であるということです。(中略)角膜に受動的に映る映像を根気よく写す行為ではなく、空間と物との存在のなかから摂理を見いだす仕事だと思うようになったのです。物は見ようとしたときにはじめて見えてくるのです。」(個展に際して 2004年4月)


描写はもちろんとても細密なんだけれど、意外とさらっと省略がキかされてるとこもあったりして、写実=細密ではないことに気づかされる。
例えばチラシにもなってる「鰯」、鰯の載った皿の右端はふわっとピントがぼかされてて、皿の光沢の描き込みも結構さらっとしてる。細密に描かれている鰯にしても、骨の向こう側の身の描き方はそんなに詳細じゃない。整理されてる。

他の静物や人物作品の背景の黒とか余白部分、なにも描かれていない部分ていうのも、何故かそこにこそ“そこに在る”“存在する”ということが描かれているようで思わず手を伸ばして確かめてみたくなる。
つまり、そこには何もない空間が“在る”。


ところで、磯江作品を間近で観て興味深かったのは、わざと画面に汚れというか痕跡が付されていること。
正確に描くために計った線の跡とか、コップの輪じみみたいな汚れがわざと加えてある。その痕跡によって、描かれたものの存在感とは別に、描く行為の生々しさを感じて、なんかドキっとする。

手を伸ばして触れてみたくなるくらい、引き込まれて見入ってるのに、「あ、これ絵なんだっけ」って引き戻される。

描きかけの未完の部分を残してあるようなところも同じく。
それらの痕跡によって描かれる過程が感じられるようで、その過程をうかがい知ることで、描くという行為の断面を見るような気がする。

ヘンな話、それらの痕跡を残さずに完全に仕上げられてしまうと、「すごーいホンモノみたーい」「写真みたーい」な観方に陥ってしまいそうな気がする。

わたしたちは普段、大してものをよく視ていないから、例えばリンゴがあれば、あ リンゴ、って確認した時点で視るのを止めてしまっている。
絵に対しても、「ホンモノみたーいすごーい」で止まってしまいがち。

そこへ、生々しく残された描画の痕跡や未完の部分によって、観ていないものごとへの注意をかき立てられる。



磯江作品がこんなにまとまって観られる機会はなかなかないし、ちょっとでも興味もたれた方はぜひぜひ実際に間近でご覧になられることをお勧めします。まだやってるよ。結構会期長い。

観念と記号のアートなら印刷やwebで用が足りちゃったりする(むしろそっちのほうが本領だったりしちゃう)場合もあったりするけど、磯江作品は絵と向かい合う体験にこそ、観る・視ることの意味を問われるので、ぜひに足を運ばれたし。

会期は10月2日まで、その後、奈良県立美術館に巡回。



 

↑展覧会場で、この画集の増補版(2011.7.5発行)が販売されてました。
増補でないほうのモト版(2009.3.26発行)と内容がどう違うのかは比べてみてないのでわかりません。美術出版社のwebサイトにも載ってなかった。

追記(2012.1.4)amazonにも増補版出てた。モト版すごい値段だね。

タグ:磯江毅
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オルセー美術館展 [展覧会、イベントなど]

「オルセー美術館展2010」 於:国立新美術館

印象派って正直もう賞味期限切れなんじゃないの、とか思ってて、ぜんぜん行く気なかったんだけど、シャヴァンヌとルソー、しかも「戦争」が来てると聞き、これは拝んで来ねば、とお参りに行ってきた。

……混んでたorz。
ていうか、平日の午前、開館直後張り切って行ったんだけど、その時間が結構混むらしい。閉館間際とかのが狙い目、なんていう話も聞いたことあるけど、基本混んでるんだろう。みんな大好き印象派だしね。

印象派が賞味期限切れなんじゃないのか、というのは、印象派とは歴史的な背景(アカデミズムの権威への反逆や、近代化への動き、政治的イデオロギーの傾向とか)があってこその表現だと思うのね。
ポスト印象派としても、キュビズム、フォーヴィズム、シュールレアリズム、ダダイズム、未来派やロシアアヴァンギャルドなどなど、表現の傾向というよりは、まさに“○○イズム”“○○派”と名づく主義主張、イデオロギーなんであろうと。
んで、そのイデオロギーの求心力が失われつつある、ていうか失われて久しい?ご時世に、印象派は表現として生き残れる芸術であるのか否か、ということ。
モナリザは500年経ても名画だけど、印象派以降、近現代の作家作品は500年もつのか?

ていうところで、モネはまだまだアリなんじゃないか、と思った。ていうか個人的にモネ好きなんだよね。
馥郁とした空気感、たっぷりした湿度、ゆらめく光線の豊かさが、ひたすら快い。描かれた風景が悦んでる感じで、観てるとなんかニコニコしちゃう。
パリのマルモッタン美術館には360度パノラマの「睡蓮」があるんだけど、あの部屋はうっとりです。

セザンヌはヤヴァい気がした。なんつーかな。昭和のカホリがするの。なっつかしー。

ゴッホ、ゴーギャンはもっとヤヴァい。なんかフツー。あまりにもフッツー!な絵だと思った。
制作された当時としては革新的で最新の表現だった、ていう以上の表現であるかは疑問。
ていうかわたしが個人的に好きじゃない、っていうだけかもしんないけど。
ゴッホは暑苦しいし、ゴーギャンはなんかイモくさいなーとか思って、ステキー!と思ったためしがない。

オディロン・ルドン、ギュスターヴ・モローのあたりはビタ好みなんだけど、このあたりってさあ、端的に言って少女漫画じゃないかしらん、と爆弾発言をしてみる(ドキドキ)。
(出展されてないけど、アルフォンス・ミュシャ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイなんかはド少女漫画。)
大好物だけど、そういう少女漫画くささをどう評価するかはビミョーな気がス。

あ、そうそうモーリス・ドニがよかった。構図がかっこよくて、おっ、と目に留まる。



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ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ「貧しき漁夫」
この画像はちっと黄色みが強いかも。もっと青みがかったグレーが占める感じ。

きゃー!シャヴァンヌだ!本物だ!嬉しい!
シャヴァンヌは、フレスコ画の影響ってこともあるけど、とても敬虔な印象がある。自己表現というより、もっと上位の存在に捧げるような敬虔さ、みたいな。
繊細に微妙な色合いの静謐な画面。全体を占めるグレーはかすかにざらついたテクスチュアが快い。
描写はさらっとあっさりめなんだけど、なんつーかね、品があるというか、格が高いというか。ものすごく上質のものを目の前にしている感じの品格を感じますのですな。
大好き。


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ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ「浜辺の娘たち」

今回は来てないけど、このブルーがすごく綺麗です。





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アンリ・ルソー「戦争」

「蛇使いの女」もアレだけど、なんといっても「戦争」。この禍々しさ、ヤバさ。悪夢的に凶悪な、この異様な絵画。
堪らんです。
間近で観るとますます堪らん。呆れるくらいのヘタクソ!ヘッタクソ!デッサン狂い!
でも、そんなことをまるで意に介さない、なんだろう、この力。このヤバさ。
腹の底から訳のわからない爆笑がこみ上げてくるような。気が狂いそうな。
もーなんだこれ。

という訳でオルセー美術館展、わたしにとってはシャヴァンヌとルソーに尽きるのでした。



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「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン」東京都写真美術館 [展覧会、イベントなど]

お誘いをいただいて、ひっさしぶりに美術館に行きました。
東京都写真美術館は、商業施設どまん中にあるんでビミョーに小市民なこぎれい感なんだけど、ところどころにモダンデザイン! コンセプチュアル! アーバン! 頑張ってるんです! ていうトンガリもあり、わりと好きな美術館。ミュージアムショップも楽しい。

で、企画展「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」
大判のプリントがある訳でもないし、地味めでこぢんまりした展覧会だったんだけど、おっもしろかった!
それぞれの作風とか写真表現への考え方とか、比較して観ることによってその違いや特徴が際立ってきて理解が深まる。

木村伊兵衛の写真はびっくりするくらいフツーの写真で、現代のスナップ写真とかとほっとんど印象が変わらない。誰でも撮れんじゃないかってくらいなさりげなさとありふれた感。つってもテキトーな訳ではなく、構図も明暗のバランスもきっちり計算されててんだけど、わざとなんかハズすようなとこがある気がする。破調っていうか、敢えてバランスを崩してキメ過ぎからずらす。
で、それゆえの生々しいライヴ感。明治の人々の姿がフツーに生きててそこいらに居そうなリアル。

アンリ・カルティエ=ブレッソンは狙い済ましてコンセプチュアル、広告的な鋭さとスマートさ。トリミングなしで構図がバチバチに決まってるのが凄過ぎる。こちらはフツーの人々がモデルとして完成された瞬間を捉える感じ。ガチガチのキメキメ。

ふたりのコンタクト・シート(コンタクト・プリントとも言う。いわゆるベタ焼き)が並べて展示されてたのがすんごいおもしろい。それぞれの撮り方の違いが如実にあらわれてる。

木村は、結構遊びながら撮る感じ。あれこれ構図を試したり、撮りながら画をつくってく。その場の雰囲気や被写体に画づくりを預けていく感じで、物語的な感もあり。
ブレッソンは、撮りたい画が頭ん中にかなりキメキメで在るっぽくて、あまり迷わない。同じ構図で狙った画が来るのを待ち、瞬間を捉える。take a picture じゃなくって shoot the photo ってことなんだろな。

もちろん、木村にもキメキメな撮りはあるし、ブレッソンもルポルタージュ的な現場雰囲気重視もあり、ふたりとも作家性は固定されたものではなく、かなり幅が広い。依頼によって使い分けられてるんだと思う。

比べて改めてそれぞれの作家性みたいなんが鮮やかに感じられておもしろかったです。



それから、「躍動するイメージ 石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」ていうのも見物してきた。

アブストラクトってのは抽象ってこってすな。
馬が走るとこを連続写真で撮ってゾートロープとかパラパラ漫画の原理で動かしたのがアニメや動画の原点。
で、抽象アニメーションとなると、具象物の実際の動きを再現するっていう映像づくりとは違って、画が動くとか形態の変容を描くことに、より概念的に迫っていくことになる。
即ち、画が動く→視覚表現に時間軸を持ち込む。時間の知覚というのは聴覚的であろうから、方向性としては視覚表現と聴覚表現の融合、みたいな共感覚的なことになってく訳なのかな。つまり具体的には音楽の映像化、映像の音楽化。
実際、ディズニーの「ファンタジア」の元になった試みも紹介されておった。

興味深いんだけど、展示された作品としてはいささか頭でっかちで体感的な快さには欠ける。
つか、初っ端の「馬が走る!」ていうだけの動画がめっさ気持ちよくってサルのように繰り返して観てしまう。
とりあえず、それに勝ってるアブストラクト作品はなかった。

でもまあおもしろかったです。パラパラ漫画つくりたくなった(笑)。


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て、展覧会やりましたー [展覧会、イベントなど]

先週末、金工作品の展示やりました。
とはいっても、プロの職人ではなく、通っている金工教室の生徒展、“お教室の発表会”てやつなんすけどね。
ただまあ、金属っていう素材の魅力もあって、素人ながらなかなか見られるものにはなってんじゃないかと思うです。

久しく会ってなかった友人知人が訪ねてきてくれたり、充実した会期を過ごしましたことです。よかったよかった。

展示の様子。会場の雰囲気。慌ただしい中でささっと撮ったんで作品見切れてたりします。ま、雰囲気ってことで。



シロタの作品。展覧会に出してないものも含め。

「花手燭」:置きでも手持ちでも使える燭台、手燭(てしょく)。
参照:南部鉄器の手燭 伝統的な手燭。花手燭のデザインの参照に。
「桜のバレッタ」:髪留め。安土桃山の着物の文様から八重桜の意匠を拝借。
「どんぐり簪(かんざし)」
「三日月のバレッタ」:真鍮(しんちゅう)。あだ名は“伊達政宗”(笑)
「梅の簪」
「飴入れ」:昔は甘いものは滅多に口に入らない大変な貴重品だったそうで、だから綺麗な器に宝物みたいに丁寧におさめてたんだろなー、と。


タグ:金工
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戸隠〜戸隠そば、戸隠牧場〜 [展覧会、イベントなど]

戸隠そば09.jpg
そば屋だらけ戸隠のそばは、どこで食ってもうまいんだけど、シロタ家お気に入りの「千成」の天ざる。
そばを束にまとめて供する戸隠ならではの盛り方で、“ぼっち盛り”ていう。ひと束=一ぼっちで、六ぼっちが標準一人前の盛り。半ざる=三ぼっち、とか、大盛り=八ぼっち、とか量の加減に便利。

麺のそば以外にも、そば茶、そば団子、そば饅頭、そばふりかけ、などなど、そばモノ土産たらふく。



戸隠牧場風景08.jpg
戸隠牧場は、余所んちの牛馬、牛乳を採るのを休ませる牛(乾乳牛)や、放牧して太らせる馬を預かるのが主であるらしいので、実は酪農牧畜特産品をいただける訳ではない。
んだけど、動物を間近で見られて触れるので、めたくた楽しい。だだっ広過ぎず密集過ぎず、人出と規模の兼ね合いがちょうどよくって遊びやすいんだよね。
牛、馬の他、山羊、ウサギ、モルモット、ミニ豚が居て、そいつらがかなり間近にうろちょろしてる。
そんでまた、この牧場に併設のカフェの茶菓が美味で、そばシュークリームとか紅玉りんごケーキとかそばソフトクリームとか、毎回食らう。コーヒーもイケます。今回は、パリパリの薄い生地に濃厚チーズと地物きのこが乗ったピザが超うまかった。来年はパスタを攻めたい。

景色もいいし、ご機嫌でくつろげる。


ウサギ1.jpgウサギ2.jpg
手乗りサイズのちっさい子ウサギが居た。おとなしくってかわいい♡
夕方近くなると結構冷えてきて寒いらしく、まるまっこくなってる♡



戸隠牧場馬09.jpg
馬をかまうのがほぼ目的と化している戸隠牧場。でっかい顔を間近に、ほかほか鼻息とほよほよの唇で手元を探られるとうひゃひゃーて笑えてきます。愛い奴らだ。あ、でも気をつけないと噛むこともあるらしい。
体験乗馬もできる。去年も乗ったけど、今年乗っけてくれたコは、わたしみたいなシロートの下手糞な指示も聞いてくれて、とっても穏和で素直なコで大変ご満悦。楽しかった。


てなわけで、また来年。



タグ:戸隠
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