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自殺対策強化月間だそうだが [雑事、雑文]

3月は自殺防止強化月間だそうですが、自殺についてちょっと思うところを書くよ。

そもそも、わたしが自殺を如何様に考えているかというと、当人の意志による決断、とかではなくって、病死+事故死だと思っています。
自ら死を選ぶ人なんて居ないと思う。

本当にその人の意志による選択か否か、っていうことを突き詰めていったら、自由意志とは何か、社会とか周囲の環境の影響じゃなくって絶対的な自分の決断なんてできんのか、とか哲学的な問いに至り、ものすごく検証が難しいことだろうけど、とりあえず、死ぬしかない、死ぬ以外に選択肢がない、と思っちゃってる状態というのは病的、つか端的に病気だと思う。
例えば、a.ご飯食べる b.泳ぐ c.死ぬ、とか選択肢が他にある中でわざわざ c.死ぬを選んだのであるなら、その人の意志であると判断できるかもしれない(それだってその選択肢が妥当かどうかいくらでも疑える)けど、選択肢が他にない、と思いこんじゃってる状態では当人の意志もなにもないのじゃないですかね。

で、そういう病的な状態にあるときに、ふと危険な状況、例えばホームに電車が入ってきたりとか、高いビルの屋上ドアが開いてたりとか、うっかりしたら命を落とすような状況に行き遭わせてしまったら、うっかりしちゃうかもしれないでしょう。
電車の飛び込み自殺は、人に迷惑かけたくってわざわざあんなとこに飛び込む訳じゃなく、通勤通学とかでよく利用する場所+うっかり死ねそう→うっかり遂行、じゃないのかなー、と思います。

だから、自分も可能性がなくはないと思ってる。
自分が病気にも事故にも遭わないって保証はどこにもないから。ていうかいっぺん本気で発症してるしな。
神経症、とか、抑鬱症状、気分障害、とかいくつか病名つきました。カルテにはdepressionて書いてあった。

鬱症状で死にたくなるときというのは、なんつーかな、すごい引力で引っ張られる感じで、非常に逆らいがたい。
ありゃ無理だ。アレに逆らうのは無理。本当にすごいよ。


鬱病に関しては「心が雨漏りする日は」(中島らも)がすごくリアルで迫力。
中島さん自身が鬱を発症して死のうと思い至り、死に場所に赴こうと立ち上がった瞬間にわかぎえふさんがたまたま訪ねてきて命拾いした、っていう逸話が鬼気迫るというか迫力というか。怖いよ。
頬の先をひゅっと凶器が掠めて後から事態を知って冷や汗が出る、みたいな。

鬱状態に思い浮かぶ暗黒なイメージの描写も怖い。
怖がらせようとはしてないの。淡々とした書きっぷり。ただその淡々さが、当人の意志も何も届かない、否応なく抗いようもない容赦なさであることを感じさせて、怖い。

もっとも、中島さんの鬱(正確には双極性障害、いわゆる躁鬱病だったそうなんだけども)の対処方は無茶苦茶なのでそれは参考にしちゃ駄目です。いやなかなか真似できようのない無茶苦茶さなんだけどもな。

また、そういう苦しい鬱状態が薬を服用したらあっさり治ってしまい、あんなに苦しかったのにこんな薬で治るなんてくやしい、とかも言ってる。
わかる気がする。くやしいってほどじゃないけど、わたしもびっくりした。
鬱で鬱でどーしようもなかったのが、あれ?なんであんな根拠もなく悪い想像ばっかりしてたんだろう? ってわかんなくなる、以前の自分の考えが自分の考えとは思えなくなる。
自分の気持ちや行動って自分でコントロールできると思ってて、できなきゃいけないと思ってたんだけど、それが、自分の意志に拠らず、薬で気持ちとか変わることに驚愕。

心のはたらきというのは身体の機能に拠るもので、で、身体には物理的な薬物の作用が効いたりする。
考えてみりゃ当たり前のことなのかもしれないけど、それまで自分の意志で気持ちや行動を決めてるつもりでいたから、それが覆ったようでびっくりした。

この経験からも、自殺≠自由意志と思う。
薬で変わるような決断が自由意志なのかどうか。
(ましてや、金があれば死を選ばない、とかだったら、それは自由意志なのか。)

これは、病気の状態の話ではあるけれど、病気と健康の境目って非常に曖昧なものなので、今現在病気とか診断されていない人だって当てはまるかもしれない。
自分の意志が信じられない状態→だから、端から見てどう思うか、誰かに相談してくださいと呼びかけられる訳だよ。


というわけで、死にたい・死ぬしかない・死のうと考えてしまうのは、当人の意志ではなく病気の可能性があり、病気がそう思わせてるのかもしれないのでとりあえず病院に行くことをお奨めしておく。
それ、自力では治せないからマジで。
努力根性辛抱我慢ではキかないです。むしろ悪化するかもしれない。


自殺は甘えで迷惑、とか仰る向きには、自らの意志ではどうにも及ばない状況というのがありますよ、と申し上げたいが、そういう人って「努力して頑張れば何でも乗り越えられる(乗り越えられないのは頑張ってないから)」教の信者だったりするのでどーしようもねんだよな。自分もそうだったからわかるけど。

自分の意志が及ばないことがある、とか怖くて認めたくないものな。






もやもや雑感 [雑事、雑文]

どうもここんとこ、なんかもやもやしているのだけど、どうにもまとまらないのでもやもやしたままとりあえずごしゃっと書き出してみる。


ちょろくない

そもそも埼玉とかシロタんちの近隣は被災ってほどのこともなくもとからいつも通り普段通りのはずだろうよ、そのはずなのに、地味にじわっとダメージを受けていたのでした。
開店前の生協に行列ができてて、入場制限されてみたりする混雑混乱とか、何事なんすかってのよ。青筋立てて明らかに殺気立った人とかパニくった人らがいて、で、そういう雰囲気が伝染しそうで、でもパニック寸前でどうにか耐えてる人が大多数なんだけど、その“どうにか耐えてる感”がキツい。

計画停電なんかはまあちょろい。
と言ってみても、実際のところ、ちょろい訳がない。
近隣のご町内真っ暗になると非常に嫌な感じで、しかも余震がきたりするとものすごく不吉で悪いことを思いついてしまう。本当は通電してるんだけど自主的に敢えて消す、ていうのと全っ然違う。
停電そのものよりも、災害の余波が未だ復旧に至っていない、ということを思い知らされるのが堪える。だいぶ慣れたけど。
ていうかそもそもシロタんちはエアコン苦手IH調理器具嫌いで普段から電力消費少なめなほう(のはず)あんま困んないほうなんだけどね。

で、「停電なんかちょろいぜ」って言わなきゃならない感が、これまたちょろくない。
被害甚大な東北・北陸・北関東の皆さんを思えば、どうってことないのです、確かに。
また、世界には内戦や迫害によって困難な生活を強いられている人々がたくさん居るわけで、その人たちに比べたらそりゃもうユルいしちょろ過ぎ。
それは確かにそうなんだけど、ただ、困難にある人たちは、誰かの安寧や平穏を確認・保証するために困難にあるわけではないのであって、誰それに比べて自分は恵まれてる、ていう言い草は失礼千万だったりする訳で。
また、そういう考えは戦時中「戦地で戦っている兵隊さんの苦労を思えばこのくらいの辛抱」と我慢を強いられる、ジャパニーズ・トラディショナル・カスタム・ザ・同調圧力と地続きだったりする。

のだけど、やっぱり、しんどいとか言いづらい。
ちょろい、って言っちゃいたい。

ていうかもう、ごめんなさいって言ってしまいたい。
安楽に過ごせてごめんなさい。
あったかいご飯を食べられて布団で眠れて風呂に入れて清潔なトイレをつかえて電気もガスも水道も通ってて、ごめんなさい。
なんかもうすっごい疚しいんだ。
↑うわひどい。なんて傲慢だ。

安易な自粛や被災者への一方的な善意の押しつけはこういう気持ちから起こるんだと思う。
相手は疚しさのはけ口じゃないのに。


それでも“いつも通り”

それでも“いつも通り”を貫く人たちはすごい。
神妙に深刻にしてる方が全っ然ラクだろうに、大変な勇気だと思う。そうは見えないとこがまたすごい。
Twitterの@NHK_PRの肝の据わったユルさには感銘。どこに居てもプロフェッショナルってすごい。

普段ラジオ聴く習慣がないんだけど、ポッドキャストで聴いてみた番組。

>オードリーのオールナイトニッポン(3月20日放送分、かな?)
平熱ぶり安定ぶりにすげえホッとする。ヘッタクソな歌(笑)に肩の力抜ける。若林さんが「絶対大丈夫ですから」て、さらっと普通に言ってて、グッとキた。

>ナインティナインのオールナイトニッポン(3月18日放送ぶん、らしい)
岡村さんという人は、かなりめに繊細でナイーブな人なのかもしれないな、となんだか意外に思った。そういう人がいつも通り振る舞おうとするのに勇気づけられる。

>伊集院光の深夜の馬鹿力(3月21日ポッドキャスト版)
「くだらないことを言わせてほしい。笑いを与えるなんて思ってない。ただ、自分が言うくだらないことを誰かが必要としてくれると信じないと無力感でたまらない」みたいなこと言ってて、自分の気持ちを言語化するのが的確過ぎ納得感すげえ。

こういうとき、お笑いとか芸能に疎いのは損してるなー、とか思う。


ACのCMとか、応援ソングとか

「日本の力を信じてる」も「日本は強い国」も「ひとつになろう日本」も、えんえん物量でカマされると圧力に感じられてキツい。
見なきゃいいんだけど、何気なくTVつけるとどこでもそれをやってる、っていうのが地味に重いのね。
だからって放送局にやかましく苦情を申し立てるというのもなんか違う気もするが、とりあえずいち意見としては「ウザ重い」。

歌番組の応援ソング特集みたいなんも見とったら逆にキツくなった。
一曲二曲ならよくっても、連続でどっさり「頑張れ!」カマされるとしんどい。

励ます側としても励まされる側と考えてみても、どちらの立場でもなんかふっきれない。
相手と一緒になって頑張ろうとするほど、むしろ逆に相手との差異や立ち位置の違いが堅い砂粒みたいに異物感を増して挟まってくる感じ。

どんだけ頑張れ!と言っても、相手に代わって頑張ることはできない、相手の困難を代わって引き受けることはできない訳で。
その、どうしようもない距離を無視して「ひとつになろう」とか「一緒に頑張ろう」とか言っちゃうことの無神経さが堪える。ったら言い過ぎかな。

ひとつになんかなれない。
同じ国に住んでても、すぐ隣に居たってさえ、わからないときは徹底的にわからない。
片方が足りてて片方が困窮しているときに、同じ気持ちで頑張ろう、って言えるわけがないし、頑張れ!って言うことに、なにも感じない訳にはいかない。
その差は(相手の立場を代わって負うことは不可能って意味で)絶対だし、だからこそ災害とか貧困とか戦争とか差別や迫害は残酷だ。


そういう距離を無しにしないで励まそうとする、傍らに佇もうとする歌、かなあ、と思う。

TM NETWORK「Fighting」


I don't know what you dreaming tonight
たとえひとりでも
It's a fighting I can give it to you
くちずさんでいた
君のたたかいの歌 闇にひびいてゆけ

歌詞は中島みゆき「ファイト!」にほのかーに影響されてたりすんのかなー、と思ったりした。
あれもクる。安易な慰めとか励ましとか粉砕される。







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世界が終わったわけじゃない [雑事、雑文]

昨日は午後から夕方にかけて停電しました。頭痛で横になってたもので、全然まったく何も影響なし。冷蔵庫も扉の開け閉めしなければ保つ。
シロタ家の場合は、停電時間の把握も停電時の過ごし方も、これからもっと慣れて問題なく過ごせそうです。
今日は昼間から停電予定。


さて、シロタのような被災地近隣の無事な地域民は、無駄に不安になっておだってる場合ではなくって、出来うる限りのことを為しつつ、平常に戻らねばなりません。
もちろん、不安や恐怖から関東を脱出する方があってもそれはそれでいいと思う。不安や恐怖は身を守るための感情であって、それを否定することはない。
逃げたくて逃げられるなら逃げていい。全然おかしくない、責められることじゃないです。

ただ、我々は嘆く立場じゃない。嘆いても誰も助からない。
とりあえず今できることは、節電と募金。
買い占め買いだめしたりせず、いつも通りに過ごすこと。
いずれ支援の要請があってできることがあれば応えるために備えること。
何もできないこと、無力であることにうちひしがれないこと。

「緊急時に、何もしないことが最良でありうることを認め、何もできないことを受け止め、何かした気になることを戒め、何かしないと不安になることと戦うことの別名を、祈ると呼ぶ。(後略)」

ていう@hkubota1016さんのツイートを見かけて、祈ることの苦しさ切実さを思いました。
何もできないのは、本当に苦しいことで、でも、今こそ、その苦しみに立ち向かわなくてはならない。


ていうか、本当のところは何もできないどころじゃないんで。
買いだめ買い占めしない、無駄に移動して交通の妨げにならない、救急車両や支援活動車両に道を譲る。なんでもできるわけで。
で、こうやって、ブログで意見を発信したりもできる。
無駄にサーバの負荷かけてんじゃねえよ、と言われるとちと苦しいが、でもね。

声出してこーぜー!
と、言いたいのだった。
世界が終わったわけじゃないんだぜ、と。
いつも通りの日常、普段の生活が、ちゃんとある。
そして、それは被災地と切り離されてなんかいない。地続きで繋がってる。
だから助けに行ける。


なんつうかな、日曜日の「笑点」「サザエさん」的な、NHK「きょうの料理」のテーマ音楽的な、頑丈な日常感、ああいう感じが足りない気がすんのね。
なんかこう、地に足着いた「ど日常」な感じのことを発信していきませんか、ってことです。
元気の出る映画を見たよ、とか、本や音楽のこととか。犬猫小動物や子どもが可愛いよ、とか。
ささやかで他愛ない、けれどかけがえのない事柄をね。


特に、関西方面の方々に、でーんと構えていて欲しいな、というのはごく個人的な要望なんだけども。
なんとなれば、首都を乗っ取る勢いで盛り上がってくださってかまわない。
阪神淡路大震災を経験している人たちの存在は、確実に心の支えになる。
あなたがたに「大丈夫だよ」と言ってもらえることの重みは大きい。
勝手に負わせて申し訳ないけれど。
(ただ、被災の映像などでフラッシュバック起したり、しんどい方はご無理なさらず)

ていうわけで、ブログやTwitterアカウントや何かしら発信手段をお持ちの方は、なんか日常のひとことを言ってみちゃらんですか、と、おそるおそる提案してみます。
余所のブログにコメントしてみるんでもいいかも。
募金や節電以外にもできることとして。

声出してこーぜー!


というわけで、今後は平常のたわ言ブログに戻ります。
レッツ日常。どんと来い計画停電。


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無駄に不安。レッツ平常心。 [雑事、雑文]

うちにはまったくといっていいほど被害はないものの、近隣のスーパーではカップ麺と水、トイレットペーパーなどが売り切れ、ガソリンスタンドも長蛇の列とかいう、やっぱり確実に日常とは違う、“なんか起こってる感”をひしひしと感じるわけです。

TV見るとしんどいので極力見ない。
津波や瓦礫や原発の映像見たところで何もできないし。無駄に不安になって疲れるだけなので。
今はプロフェッショナルの仕事を信じて、彼らの邪魔になんないようにおとなしくいつも通りに過ごしとくのが肝要なんだと思う。
その、いつも通り、が結構難しいんだけどね。

被災状況を見続けんのはよろしくないです。
買い占めとかいかがなものかと思うけど、アレ見てたら何か対策せねば、と思っちゃうよ。余震も続いてるし。
あと、被災してなくても悲惨な情景を見続けることでPTSDになることがあるらしいです。

ときどき小規模な余震があったり、停電に備えたり、それなりに緊張してて、ふと気をぬいた瞬間に頭痛とか肩こりに気づいてみたり。ヒステリー球の症状で喉が詰まったようになってたり。
ほとんど被害ないってのにこのザマなので、深刻な被災地の方々の疲労やいかばかりか。

と、つい「被災地の方々を思うと、平常で安楽にしていられて申し訳ない、後ろめたい」と思ってしまったり、「被災地の方々の苦労に比べればこの程度の支障に疲労するなんて甘っちょろい、情けない」とか、いいコぶり&自分虐めスイッチが入ったりして、これまたよろしくない。


なんかねえ、いつもの生活がじわじわ壊れてくみたいで不安なのです。
不安は不信とか迷妄とか疑心暗鬼とかヒステリーに繋がりやすいと思う。
なので、全力で気を紛らわし、できるだけフツーに過ごしたい。

「いかん不安だ!死ぬ気でくつろがなくては」(「モンキー・パトロール」vol.5 有間しのぶ/祥伝社)

↑まさにこんな感じだ(笑)。


そういう状態なんで、実家の北海道や関西方面の友人との電話・メールのやりとりには気分がほぐれてホッとします。貴重。
メールの送信先や電話の向こうに、ちゃんとフツーの、日常の生活がある、と感じられることに安心するんですね。世界は壊れてないよ、破滅してないよ。ていう。
特に、阪神淡路大震災を経験している関西の方の言には重みがあるというか、安心度高い。

あと、愚痴が言える(笑)、ってのが大きいかも。東北や北関東に比べれば被災とも言えない状態だけど、地味に不便や不安や緊張が積み重なってて、そういうの吐き出せるとだいぶ落ち着ける。
こうやってブログに記事書いたりするのも、自分が落ち着くためだったりする。


さて、夜の停電に備えて飯でも炊きます。(シロタ家の場合、時間がはっきりしてれば3時間程度の停電はちょろい。余裕。任せろ東電)
考えてもろくなことないんで淡々と体動かして働くのがよいですね。






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無事です(友人知人親族向け) [雑事、雑文]

えーと、知人や親族宛のお報せ。
当方、無事で居ります。

地震の被害は微小(本棚の本やCDが崩れてきた程度)、電気もガスも水道も問題ないです。
猫も亀も無事です。
家人とも連絡がとれ、無事を確認できています。
さっき買い物行ったけど、うちの近所はとくに目立った被害はなさそうでした。
生協の酒・飲料棚がちょっと崩れてたようですが、それくらいかな。

ただ、通信網がかなり混雑しているらしく、携帯電話、携帯メールなど、なかなか通じないようです。
家の固定電話回線もどうなのかなあ。一応プーって通話可能な音はするけど、実家にFAX送れないし。
相当な混雑が想像されます。

ま、無事なので、ムダなトラフィックを増やすのはよろしくないし、ブログをチェックできる知人親族が居るかもしれないので、こちらに挙げときます。


ちなみに災害伝言ダイヤルは171
安否確認はこちらを利用したほうがよろしいようです

他者、他者性について [雑事、雑文]

ゼロ年代的映画なるものを考えてみた先日来、「他者」とか「他者性」ってことが気になっていて、で、エマニュエル・レヴィナスという人が他者についてものすごおーーーく考えた人であるらしい。
いきなり著書を読むのはハードル高いんで、とりあえず「レヴィナス—法-外な思想」(港道 隆/講談社)「レヴィナス入門」(熊野 純彦/ちくま新書)ていう解説書を読んでみた。

読んでみたけど、わかったようなわからんような。読んでる間はうんうんなるほど、って思うんだけど、本を閉じるとわかんなくなる。レヴィナスや執筆者の言葉として意味は解するのだけど、自分の言葉に消化できない感じ。
フッサールとかハイデガーちゅう人の思想もわかっとかないと厳しいっぽい。デリダとかメルロ=ポンティも押さえとくとなお可。なのかな。


「レヴィナス—法-外な思想」の表紙の後ろ側に記載の紹介文がかっちょいいので引用してみます。

法-外な思想(panśee extra-ordinaire)

他者とは誰か。他者は<私>を傷付け、苦しめ、迫害し、殺しうる。そうした他者に<私>は責任を負いうるのか。その暴力のさなかでさえ「汝殺すなかれ」と<私>に呼びかける他者の顔が、<私>の存在の暴力性を暴き、<私>を存在の安寧から逐い出し、責任へと目醒めさせる。
<私>は他者の暴力に傷つくだけでなく、暴力に苦しむ他者の苦痛をも苦しむ。<私>は他者の「身代わり」として在る。他者の顔が開く<私>の他者への無限の責任こそが、正当防衛の名のもとに悪循環に陥る戦争を抑止する。<私>は一人で存在の不条理と無意味に耐え、世界の重みを支える。この非対称の関係を言いあてる「法-外な」倫理学こそ、常識を覆すレヴィナスの思想である。


他者について思ったこと、今の段階で自分の言葉として語りうることとして、メモ。

他者、ってことをとりあえず“わたしじゃないもの”、って言い換えてみる。“わたしじゃないもの”は“わたし”と区切りをつけるのが意外と難しい。
例えば米は“わたしじゃないもの”だけど食ったら“わたし”になる。その際、米はいつどういう段階で“わたしじゃないもの”から“わたし”になるんだろう。
毛髪は“わたし”だけど、抜けたり切ったりしたら“わたしじゃないもの”になる(でも、“わたしだったもの”だから、なんとなく気持ち悪い)。

他人は“わたしじゃない”んだけど、“わたしにとっての○○”になってくれる場合がある。
例えば、“わたしの”友人、恋人や配偶者や親子きょうだい、もしくは敵とか味方とか、赤の他人とかになってもらえる。正確には“わたし”の都合で勝手に所属配置されてもらう。
誰かを理解するとか認識するっていうのは、“わたしにとっての何者か”になってもらうこと。で、端的に暴力なんだろう、こういうのも。
(つまり、理解する/理解しようとすることは暴力だってことになるのかな。うーむ。)

んで、“わたしじゃないもの”の他者性とは、米みたいに“わたし”になったりせず、友人や家族など“わたしにとっての○○”になったりもしない、ということ。
わたし”の理解/認識する世界の外に居るもの。徹底的にわからないもの(わかっちゃったらそれは“わたしにとっての○○”)。

意識と無意識の関係にも似てるかも。
無意識は意識できないから無意識なのであって、無意識の領域を意識できたとしたらそれは単に意識である。ていう。
無意識は“わたしじゃない”。

わたしじゃないもの”のことは、以前「大奥」追記でちょこっと書いてみたこともある。
わたしじゃないもの”を識別して排除しようとする免疫機能と、“わたしじゃないもの”を孕んで育成する生殖機能が矛盾する女性の身体の葛藤について。

「トゥモロー・ワールド」の赤ん坊は“わたしじゃない”他者の現前。この赤ん坊って最後の最後まで名づけられなかったと思うんだけど、名付けとは相手を“わたしにとっての○○”にする行為。
赤ん坊を欲しがる人物が出てくる。
世界が“わたし”だけだと孤独だから、“わたしじゃないもの”へと欲望が向かう。“わたしじゃないもの”を“わたしにとっての○○”にしたがる。
けれども、“わたしじゃないもの”を暴力によって“わたしにとっての○○”にしてしまうと、世界は結局“わたし”だけになってしまう。そこに生じるジレンマ。

「宇宙戦争」「エレファント」「殺人の追憶」の、他者からもたらされる暴力、その徹底したわからなさ、“わたしじゃな”さ、他者性。
エヴァンゲリオンの使徒も他者の現前。

「崖の上のポニョ」の凄さは他者を歓迎すること。
リサは「 不思議なことがいっぱい起きてるけど今は何故なのか分からない。でもそのうち分かるでしょ」て言う。
不思議なこと、わからないこと、しかもハンパじゃないレベルで起こっている状況をそのままに受け容れ、応える態度。

ゼロ年代に、わたしたちは否応なく容赦ない他者/他者性に出会った。
そして’10年代以降、如何に他者に向かい合っていくか、支配せずされず、排斥せずされずに居られるか、ってことなのかな、と。


なんか考えながら書いてるので同語反復とか飛躍し過ぎとかあれこれあると思うけど、とりあえずこれが限界。








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武蔵野美術大学 基礎デザイン学科 [雑事、雑文]

 →武蔵野美術大学 公式webサイト基礎デザイン学科

 2010年1月29日〜2月1日の期間、卒業制作展をやってますね。昨年観に行って、ものすごくおもしろかったんで行けそうな方にはぜひお薦めです。なまじな美術展よりか見応えあり。基礎デの原研哉ゼミが滅法おもしろかった。

 武蔵野美術大学基礎デザイン学科、略して基礎デ。
 実を言うとシロタは10数年前、この学科の学生でありましたのです。
 別記事で紹介している「デザイン学―思索のコンステレーション」の著者、向井周太郎先生の講義も受けたことがあったのだけれど、当時は(今よりも)馬鹿で、(もっと)怠惰であったので、向井先生の研究や著作の意義やおもしろさがまるでわかってなくって、それどころか講義の時間を昼寝に充てるという罰当りっぷり。
 今になって向井先生の著作を読むと、ものすごくおもしろい。知的興奮に満ち満ちてエキサイティング。
 学生時分の己を張り倒したい勿体なさなんだが、学生なんてそんなもんなのかもな。

 基礎デザイン学科、というのは、実はムサ美の学内でも、他学科の学生にはどういう学科なのか今ひとつ理解がおぼろげな、ナゾの学科でありました。
 デザインといえば、視覚伝達デザインとか工業デザインなどの専攻があり、例えばグラフィックデザイナーになってポスターつくるぜ、とか、ホンダで車のデザインすんぜ、とか目的がぱしっと見えて、作品も感じがつかめる。
 そんな中で、基礎デザインて何?と尋ねられても甚だ説明に困ったものでした。

 今まででもっとも通りがよくってわかりやすかったのは、某大学の教授がおっしゃったひと言。いわく、
「基礎デザイン学は実学ではなく虚学である」
 デザイナーになるための実学ではなく、虚学。まあ付け加えれば、虚学と実学を往還する試みをも含みます。
 またこの教授はその際に「基礎デザイン学科はムサ美の良心だ」とも言。
 うん。高度情報化社会、消費社会においていよいよと重要な学問であるかもしれん。

 なんとなれば、デザインとは単に、“見ため”のことではない。
 見ためがよくって売れればよいデザインか、よいのだとしたら誰にとってよいデザインなのか。
 例えば、あるモノが生産・流通・使用されるにあたって、いち私企業が儲けまくる一方、労働者は低賃金で過重な労働を強いられ、環境には負荷りまくりで景観を乱し特定不特定の生物を殲滅し、地方自治体は消費された後のゴミの始末に困り果てる、っていうのは美しいデザインであるか。
 それは政治や経済の仕事であって、デザインの仕事ではない、と考える人もあるかもしれない。一般にデザイナーの仕事って現場仕事だし。ましてや“見ため”担当とされていれば、企画段階で無理のあるモノを強引につくらされるなんてこともあり得るわけで。(ていうかそういう話たらふく聞くもんな。成績にガツガツする営業マンの上司ウケ熱血企画の尻拭いとかさ。想像するだにげっそりするわ)
 けれども、政治や経済の仕事をする人たちはデザインの現場やものづくりを知らなかったりする。だから、ものづくりの視点で政治経済する、って考えるんでもいい。
 ものづくり全体から、ひいては社会全体、さらには命が循環する世界全体をも考えることが必要である。
 そしてそれをデザインという切り口で、実践的に、創造的に考える、それがデザイン学な訳です。

 デザイン学においては、色、かたち、見ためだけでなく、機能、安全性、価格、流通形態、原材料、コスト、環境に与える影響、生産ラインの設計や、生産にあたる労働者の労働形態まで、デザインを考慮する要素に含まれる。
 ひとつのモノをデザインすることは、使う人やつくる人、売る人、関わる人すべての生活や生命が循環する世界をもデザインすることである。
 そして、それが多くの人にとって、人を取り巻く環境をも含めて、あらゆる見地から見て、真に美しいデザインであるか、ということ。
 そこに、哲学や理念が必要にならないわけがない。
 人が幸福に暮らせるための世界、それを理論としてだけではなく色や形をもって目にしたり手に触れられる“かたち”に表す(=デザイン)ための学問であるのです。

 でもって基礎デザイン学科の“基礎”っていうところでは、職能的に専門分化されたさまざまなデザイン分野に通底する要素を探究・考察していきます。細分化された領域から、基礎へと遡行して考える、その基礎って何か。あるモノのかたちをデザインしようとするときに基礎となる考え方とは。その色や形やマテリアルの捉え方は。
 実際のワークとしては、バウハウスの基礎教育課程(Grundlehre)をルーツに、デザイン史や色彩論、形態論、記号論、知覚方法論、言語表現論、コミュニケーション論などを修めつつ、最終的にはそれぞれが具体的な課題を設定して取り組むような感じだったかと。→現在のカリキュラム概要
 なので、基礎デザイン学科の英訳もBasic DesignではなくってScience of Designとなります。

 なお、ものすごくざっくり噛み砕いた紹介なので、詳細は基礎デザイン学会設立趣旨をご参照いただくと正確です。
 また、tanahashiさんのブログ、DESIGN IT! w/LOVEの記事「基礎デザイン学」が素晴らしいのでぜひにお薦めです。

 馬鹿学生であったことを反省しつつ、馬鹿なりにこの学問を(一応)修めた身として、デザイン学の一端を紹介できればよいなー、と思いました次第。




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今年はもっとビリヤードをやろうと思う件 [雑事、雑文]

IMG_0555-1.jpg


実は我が家にはビリヤードテーブルがあって、しかも組み立て式とか簡易なものではなく、公式試合にも使用される9フィート台、由緒正しいブランズウィックなのだった。えへん。
↑キューも素敵なコたちがいっぱい揃っているのさ。つっても、ほとんどはシロタ夫の婿入り道具。
右から6番めがシロタの愛用、MezzのCPシリーズ。マラカイトとターコイズのインレイがさりげなくクールなデザインがお気に入り。前バランス気味でスムーズに前に出る感じが撞きやすい。愛称“みどりちゃん”。
それなのに、あんまり、っていうか全然プレイしてなかったのでした。もったいないことだ。

この年末年始に、ひっさびさに夫と撞いて遊んだら、なかなか楽しくって。
8ボールやったんだけど、やっぱどの球から撞いてもいいエニイボール系のゲームは楽しい。つか、個人的に好みなだけかも。
それにねえ、自分で思ってたよりもヘタじゃない(あくまで自分比)っぽくて、ちょっとやる気出てきた。

という訳で今年の抱負みたいなもの、もっと球撞きする。
目標は5個以上連続ポケット(レベル低っ)。

ところでボウラードゲームは心が折れるので嫌いなんだがやるべき?


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へえー。アップル、米商工会議所を脱退。 [雑事、雑文]



room7さんの超充実ブログ、特にデザイン関係の記事がかなりめにお役立ちな◆7つの部屋◆の記事で知りました。へえー。

Macユーザーとしては、なんか誇らしかったりして(笑)。自分の手柄でもないんだけど。
なんつーか、賢い企業を選ぶ賢い消費者気分を得られてご満悦といいますか。えへへ。

他、こだわりのご贔屓企業。
THE BODY SHOPナガノトマトミヨシ石鹸シャボン玉石けん佐藤水産
そんなとこかなー。

もちろん、ここの商品は買わねえ、っていうこだわりもあったりするけど、とりあえず黙っておく。



タグ:アップル
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じゅ、10万突破 [雑事、雑文]

So-netブログのアクセス解析が正しいのかどうかはいろいろと噂されるとこなんですけど(カウント方式によって数字は変わる。で、ソネブロは多めにカウントされてるらしいって聞いたことありますー)、とりあえずSo-netが数えたところによると、昨日、当ブログの累計アクセスが10万カウントを超えました。ひゃー。

皆様、ありがとうございます。
今後も精進致します。嘘です。テキトーに続けます。


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