SSブログ

「大奥」よしながふみ [書籍]

今さらですが、よしながふみの「大奥」が映画化って。どーなんすかねえ。

「大奥」よしながふみの人気マンガを実写映画化 女性将軍に仕える美男子たち

なんかあんまし期待できなそう、と思うのは、美男子強調のあたりに、イケメンを餌にまき散らして女子を釣りまくろう、なんていう商業主義なニホヒを感じるから。

そもそもこの漫画は「大奥」で “男女逆転” ていう恐るべき設定なわけなんだが、そのヤバさをわかってて映画化すんのか甚だ疑問なのよな。

男女逆転ていう仕掛けが用いられる場合には、男女の差異が意図的意識的に暴き出される。
例えば差別。ジェンダー。で、 “大奥” が舞台ときたら、つまり生殖。もちろん性交も避けられないし恋愛も絡んでくる。


一巻の吉宗編は、大奥に奉公にあがる御家人の水野を案内役に、男女逆転世界を丁寧に敷き詰めてゆく。
この吉宗、胸がすくような優秀な為政者っぷり。公人としての姿しか描かれてないからでもあるんだけど、個人の苦悩とか恋愛感情みたいなものがいっさいなさげな仕事しまくり。
で、将軍ていう仕事には世継ぎを生むという生殖も含まれている訳で、そのための性交すら公人仕事モードでさくさくこなす。
生殖機能を別にすれば、男女に差はない。それが、吉宗っていう存在。

その吉宗が男女逆転の謎に迫るべく、記録を遡るのが二〜四巻、逆転が成立した家光の代。

家光は徳川の血脈を繋ぐためだけに強引に将軍職に就けさせられる。
将軍家どころかフツーの武家娘くらいにのどかに暮らしてたところを、いきなり襲われ母親を殺され拉致られて髪を切られて男のなりをさせられて閉じ込められるっていう強引ぶり。さらには強姦されて子を生んでその子を亡くす悲惨。
だから当然、恨みつらみも強烈で苦悩も深い。
家光が公人であるためには、好きな男との恋愛を捨て、子を為すために好きでもない男と性交しなくてはならない。

三巻67頁
「お前にわしの何がわかる!?…<中略>…他の男に嬲られるのはわしだけじゃ!!」
「わしの体だけがいつも汚され 辱められ 血を流して…!!」

乱世の気配も残る殺伐とした時代背景なんで、家光だけでなくってたくさんの“個人”が徳川のため、太平の世を築くためっていう大義のために悲惨に抑圧されるわけなんだけども。
国家が求める性と生殖に犠牲になる悲惨、っていうのが家光。

んで、なんやらぽわぽわっとして主張の弱い家綱の、これまた恋愛を諦めざるを得なかったエピソードを挟んで、綱吉。


権高で傲慢で為政者として権力を恣にしてるような綱吉なんだけど、この人も性と生殖に苦しめられる。

五巻132頁
「何が将軍だ!! 若い男達を悦ばせるために私がどれほどの事を床の中で覚えてきたか そなたにわかるか!?」
「将軍というのはな 岡場所で体を売る男たちよりもっともっと卑しい女のことじゃ」

華やかな元禄文化っていう背景があるにしても、綱吉は豪奢な打ち掛けやら装身具で着飾り、熱心に化粧を施し、“男をその気にさせるため”装いをこらす。将軍は世継ぎを生むのが最も優先される仕事だから。

で、そこに若い頃の吉宗がちょろっと登場するんだけど、この人は地味で化粧っけもなく、それでいながら自分が不器量であることを全然気にしない。そのままの自分でいいじゃん、みたいなことを気張らずに自然に信じられる人物、或いはそういう世代。


今んとこ、最新刊の五巻はその綱吉と吉宗の邂逅んとこで終わってんだけど、それでもっかい一巻を読むとへえーて感じ。

多分に吉宗個人の性格とか気質によるんだと思うんだけど、まあこの人は性別のこだわらなさ極めてる。女の体で将軍を務めることになんの不都合も葛藤も感じていない。周囲の女性官僚たちも淡々と仕事をこなしてフツーに優秀。
この巻では生殖機能を別にして男女に差はない。

その上で吉宗は、男女逆転構造に違和感を感じている。
それっていうのは、例えば男尊女卑を女尊男卑にひっくり返したところで問題が改まるべくもないのと同じで、ではどうしたら、“男だから女だからこうあらねばならぬ”みたいなことを強制されず、どんな性別でも性嗜好でも(同性愛でも無性愛でも性嫌悪でも)(訂正。性嗜好云々な描写はないや。この作家ならそういう意識もあるかもな、と思ったりはするけども)お互い尊重しあって誰もが生きやすくなるんだろうか? てことなんじゃないかと思う。

べつに江戸時代でなくっても現代だって、家庭は大奥みたいなもんだし、企業勤めはお家大事の武家仕えと変わらんし。
その間で家庭と仕事の両立に悩んだり、性と生殖に苦しむ家光や綱吉みたいな人も居るだろうと思う。ていうか実際わたしも、舅に「子どもつくんないなら何のために結婚したんだか意味ない」みたいなことを吐かれて仰天したことあるよ。子産めプレッシャーてエグいよなー。
(それにしても、ヘテロセクシズム全開な大奥家庭&武家企業社会に苦痛を感じている人は案外多いんじゃなかろうか。)
ちなみに同作家の「きのう、何食べた?」は「大奥」の対をなしてて、こっちでは所謂女性の仕事とされがちな毎日の炊事をフツーに楽しむ男性が描かれてる。フツーに仕事する女、フツーに家事する男。

つまり、吉宗の違和感は現代に通じると思う。
どうしてこういう慣習なのか、なんでこういう制度なのか。
転じて、どういう社会なら誰もが過ごしよいのか。

ていうところまで映画化で踏み込んで吉宗ていう人物を描いたとしたら、フェミニズムのフェの字を聞いただけで拒絶反応起こすような保守なおっさんらが黙っちゃいないと思うんだけど、まーそーいうものにはなんないのだろうなー。


ところで、この方の記事が穿ってて興味深く、おもしろかったです。
マンガソムリエ煉獄編:愛とフェミニズム「大奥」


2012.6.15 追記
その後、7巻あたりでなんか冷めてきちゃった。
江島生島事件の扱いとか、なんかひっかかるつーか。
巧くないとかじゃなくて、わたしの好みじゃない。わたしはこういうのが読みたい訳じゃないんだなー、ていう感じがしてきた。
理不尽な目に遭う人らを“歴史の大河に翻弄される”みたいに片付けられるのが好きじゃないんだと思う。なんか歴史好きなおっさんの説教くさいつーか。

たぶんわたしは少女漫画が読みたいんだよな。
「ベルばら」とまではいかなくても、個人がそれこそ個人的な思い(恋愛が多いだろうけど、昨今は仕事とか芸術表現とか、まあなんらかの自己実現)を政治とか社会の抑圧に負けずに貫いて達成する、的な。
個人的な思いを抑圧されて、仕方ないよそれが社会だ政治だ歴史だ大きな流れの中では個人など小さく無力なものよよよよ的な描写は少女漫画的ではないと思うの。

まあ別によしながふみがわたしの希望に応えねばならぬ訳ではないのでいいんだけどさ。
うん、なんか冷めてきた。










コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

「ホリー・ガーデン」江國香織 [書籍]

うー、江國香織。
正直言うと、オサレなステキ女子的、妙におキレイな描写は鼻につくこともある。そういうのがまた読みやすく、つるつる読んでしまった挙げ句、意外にそれらのオサレモチーフ・オサレディテール・オサレ描写が印象に残ってて、どこそこの紅茶だのチョコレートだのが目について、おや、とか思って、うわ影響されてるーて気づく瞬間が恥ずかし悔しい(笑)。
でもって、そういうステキ女子的事柄を衒いなく愛好する、まさにステキ女子な江國ファンの方々のことは激しく苦手だったりもするですごめんなさい。

で、「ホリー・ガーデン」。
妙に好きで、何度か読み返してる。作中に引用されてる詩も気に入って「尾形亀之助詩集」(思潮社)も入手。
例によって例の如くステキ女子的さらさらオサレ文章で、訳ありに紅茶茶碗(ティーカップって言わないのがオサレ)をしまいこんでカフェオレボウル(湯呑みとか汁椀じゃないのがオサレ)で紅茶をいただく果歩ちゃんの日々がたらたらゆるゆる描かれる。
一見何ごとも起こらなげに平穏な毎日なんだけど、まあこの果歩が痛々しいほどに必死の努力でへらへら過ごしているっていうのがヒリヒリと伝わってくる。オサレ文章のくせに。
果歩の意固地っぷりがミョーに好ましくって気に入っている。気分とか感情とか訳のわからない厄介なものに凛々しく逆らいつつも誠実に向き合う素直さ、自分に嘘をつこうとしてつき通せない不器用さみたいなもの。勇ましくっていじらしい。

静枝っていう人物がまた、強くてカタそうで男前なようでいながらもぬるくて通俗で偽善なアンバランスだったりして、特に芹沢への忠誠っぷりとか祥之介ほか友人との微温な付き合いが偽善っぽく感じる。それはそれで果歩と好対照でキいてる立ち位置。
全然好きじゃないけど、自分にもこういう甘いとこあるんだろうなーなんていう後ろ暗さを感じて、いいコぶりたい=自分に媚びたい自分にまたムカつく(笑)。


話のヤマ場とかオチみたいな筋立ての起伏ではなくって、ひたすら気分とか雰囲気のふわふわした描写。
そのふわふわ加減とか柔らかさや揺らぐ様子が、華奢な文章で描写されてて、喉ごしよくつるつるさらさら読めてしまうけれど、実は非常に過激で激烈な毒が仕込まれてんじゃないか、と思ったりする。「薔薇の木枇杷の木檸檬の木」なんかは、よりそんな印象が強い。

で、その毒を服用させるために嫌みなくらいのオサレでつるさらな文章が選択されてるのかなあ、とも思って、オサレ江國怖っ! て戦慄。






コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

「バベル−17」サミュエル・R・ディレイニー [書籍]

ひきつづき、笙野頼子もくもく読書中。今まで手に取ったこともない「現代思想」とか「文藝」まで無理して読んで脳が痒い。オーバーヒート気味。

ていうようなところで、言語の政治性とかその危険性、なんていう語がやけに目について、んで、思い出したのがコレ。
1966年ネビュラ賞受賞のSF小説。


インベーダー(っていうかよくわかんない敵の宇宙人)が攻めてくるときに傍受されるナゾの通信、バベル−17と名付けられた暗号みたいなものがあって、主人公の詩人、リドラ・ウォンはそれを解読、暗号というよりは一種の言語だということを発見する。

このバベル−17ていう言語の特徴がおもしろい。ものすごく簡潔で合理的な言語で、リドラはバベル−17を用いて思考すると大変に素早い判断が出来る。その際、他言語(主に英語)での思考がもどかしくまどろっこしく感じられ、その感覚が高じて時間がゆっくりすすむような感覚、スローモーション効果に至る。

他にも、シリビア星人て異星人の言語が、熱と温度変化を表す表現に異様に特化していて、英語なら図面びたびたの専門書2、3冊かかって説明しなければならない機器の説明をたった9語で正確に表せる、なんていう描写があったりして、言語っていうものの性質・特徴が、SFな設定の中でとても極端に、先鋭的に表されてる。おもしろい。興味深い。


リドラはバベル−17の源泉、それを話す者をつきとめるために宇宙船に乗り込んで探求・冒険の旅に出る訳なんだけれど、その宇宙船内で起こるトラブル、スパイが忍び込んでいる疑い、などなどがスリリングに錯綜する。
そして、バベル−17の性質が明らかになると、見えない敵の姿、意思みたいなものがその言語にあぶりだされるように暴き出され、一気に謎が解ける。このくだりは、パズルのピースがパチっとはまるみたいな知的興奮、カタルシスが快い。

ちなみに手元の版は’98年13刷、初版は’77年。息の長い小説。
おもしろい。





コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

「ドン・キホーテの「論争」」笙野頼子 [書籍]

今頃かよー、っていう乗り遅れ感満載ながら、笙野頼子の小説をざくざくもりもり読んでいる。おもしろい。ものすごく。
「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」「説教師カニバットと百人の危ない美女」「水晶内制度」「だいにっほん、おんたこめいわく史」「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」(“ろりりべ”はH図書館になかったもんで中央図書館から取り寄せ予約中。図書館かよ。買えよ、おもしろいなら。←自主ツッコミ)と読んできてて、それぞれの世界が繋がってばちばちめりめり笙野ワールド展開中、ていうか、自分が棲んでる世界の姿がどんどん違って視えてくる。読前と読後で確実に世界が変わる。
うわーっ。

ていうところで、この「ドン・キホーテの「論争」」は、’90〜2000年代前半あたりの「純文学論争」ていう出来事の顛末がまとめられたエッセイ集なんだけども、上述の小説を読んでてどうもこのカギカッコつきの「論争」に関わることが出てくるようなので興味をもって読んでみたのだった。

カギカッコつきの「論争」になってるのは、実質のところ純文学を文学的にとか政治的にとか定義を噛み合わせて論じ合う論争にはまるで至っていないから。
文学評論家でもなんでもない某新聞記者が記名記事で、ほとんど気分で“「純文学」って意味なくね? 売れない=受け容れられないし”とイメージで言いっ放しにされ、それに笙野頼子さまが反論なさった由。

純文学とは何か、とか、笙野頼子の果たしている仕事についても興味深くはあるけれど、個人的には「論敵」の気持ち悪さが印象に残る。まともに反論して来ず、黙殺とニヤニヤ笑い、陰湿な嫌がらせをかましてくる、リアル“おんたこ”。

こういうの、強烈に覚えがある。
以前勤めていた出版社で、こういう連中がウザウザ居た。わたしは編集部で仕事してたんだけど、そのときの一部の営業部員がこんなんだった。大抵の出版社では営業と編集って仲悪いらしいけどね。わたしは“クソ虫”って呼んでた。

なにしろ、連中の言うことには「売れる本をつくれ」一辺倒。編集側が「んじゃ、具体的にはどのように? この著者は? この作品は?」とか聞くと、「そういう検討は編集の仕事だから」と返答を濁す。
エラそーにビジネス用語乱発して仕事してますできますオーラぷんぷんさせてるくせに、マーケティング的にこれが売れるから!ていうようなことを言ってくる訳でもない。ていうか、それを言っちゃうと売れなかったときに責任とらされるから、編集部門に責任をなすりつけるための予防線はってる。
つか、そもそも商品だけで売れるんなら営業なんか要らんわヴォケ。白紙のメモ帳でも、しかも紙なんか余りまくってる相手にでも、売ってくんのがお前らの仕事じゃ。
それにこいつら、ろくに出版物のことを勉強してなかった。学習指導要領のどこがどう変わったかで自ずと内容が決まってきたりするってのに、この内容が載ってない、とか、いやだから、どうしてそれが載らないかを顧客に説明すんのがお前らの仕事だっつの。
その上、売れないと文句いうくせに、編集資料として置いてある刷り余りの書籍をこそこそ持っていって、顧客に「献本」しちゃうし。著作権事情に疎い学校の先生は営業担当から見本をもらうとコピーしてガンガン使う。そんなんしたら本が売れる訳ない。
要するに、客とか上司とかにものが言えないので、言いやすい相手に文句言って責任逃れしてるだけ。

て、いうようなことをもう少し冷静な言い回しを心がけつつ言ってみたりしてたんだけど、そういうときの連中の反応が、まさに黙殺とニヤニヤなんだよねえ。きちんと理屈で反論してこない。できない。
「いやあ、シロタさん厳しいなー」「そんなにいじめないでくださいよぉ」的な。被害者ぶるなよ、いけ図々しい。終いには明からさまに避けられて、道歩ってるとモーゼ状態、ていうかゴキブリとかフナムシがざざーっと動くのにそっくりだった。まさに“クソ虫”。
別にわたしが絶対正しかったとは言わない。けど、わたし程度に意見を言うでもなく避けまくる態度ってなんなの。わたしを嫌いなのは構わないけど、仕事なんだから好き嫌いで行動すんなよな。

もちろん、営業部みんながみんなそうだった訳ではないけど。「イイと思うものをつくれ。俺が売ってきてやる」って言う超かっこいい人もいて、で、その人は編集に厳しいことも言うし喧嘩もしたけど変な誤摩化しはいっさいなかった。ちゃんと噛み合ってた。でもその人辞めちゃったな。
営業部も編集部も他の業務部も、まともな人がどんどん追いやられる印象があった。

で、「論争」と、“クソ虫”の跳梁跋扈は、年代がぴったり被っていて、なんだかそれが偶然の一致とかそういうことではなくって、たぶん、それは同じものなんだ、と、強烈に感じてしまうのだった。
“クソ虫”とは“おんたこ”。そういうことだったのか。
笙野頼子が書く世界、“おんたこ”がはびこりのさばる“だいにっほん”が、えらいことリアルに迫ってきて、決してそれが本の中のフィクションで終わらない、現実が描き出されてる、と感じられて戦慄してしまうのだった。





コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

「激しく、速やかな死」佐藤亜紀 [書籍]

51SoHxEP38L._SS500_.jpg

佐藤亜紀さまの新刊、短編集。発売日にほくほく入手してねぶねぶ読んだものの、難しいというか取っ付きにくいというか、キビしかった。

そも大蟻食さまはご自身のブログにて、自分の作品は万人に向くものではない旨、警告をくださっているわけなんだが、それはまあ承知していたつもりなんだけれども、常にもましてこの短編集はキビしい。
なにしろ、サドもタレイランもメッテルニヒもボードレールも知らんし、「戦争と平和」も読んでないのでいくつかのお話なんかはまったくちんぷんかんぷんだった。巻末に、作者による解題としてネタ元が示されているけれども、本来、こういう書物はネタ元なんぞは言わずもがなで承知の上、余裕ぶっこきで軽ーく読み流し、ふふーんなるほどねってニヤニヤ笑って楽しむもんなんじゃないかと思うんだけども、そんな余裕ないっすわ。
とりあえず、今までの佐藤亜紀作品体験をとっかかりにしがみついてみた、って感じ。


「激しく、速やかな死」
話の筋も語り口も全然違うんだけど、「ミノタウロス」みたいな読後感を感じるような。
死とは、断頭台みたいに恐ろしげで劇的な代物ではなくって、何もなくなること。意味を失うこと。

53ページ。
どれほど牢獄でさめざめと泣こうと、どれほど髪を掻きむしろうと、逆にどれほど従容と全てを受け入れようと、何の区別もない。どれほどの血が流れようと、どれほど群衆が熱狂しようと、犠牲者がどれほど毅然としていようと暴れようと、意味は一切ない。<中略>わたしがわたしであり、あなたがあなたであったことに何の意味もなくなってしまったように、その後のことにも意味はありません。それが意味です。

このくだりが「ミノタウロス」の最後、ヴァシリが死ぬとこに印象が重なるような気がして。
「スローターハウス5」みたいな感じもした。「そういうものだ。」


「荒地」
なんか知らんうちに恐ろしく野蛮な世界が訪れる。不穏な感じ。
「天使」で、一次大戦前夜、ジェルジュが、僕たちは負けたんだ、って思うくだりとか。
または、「魔の山」(エッセイ集「検察側の論告」でも書評なさってるし、なんやかや取り上げられることが多い印象がある)みたいな。
これもっと長編で読みたいなあ。


「金の象眼のある白檀の小箱」
とっても意地悪くって痛快。笑った。

140ページ。
それにしてもほんとうに男の人って勝手なものね。


「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」
とっても明晰な狂人の話。ひょっとしたら、滑稽なお茶目さんの笑える話か、完璧にイっちゃってるヤバいやつのサイコホラーにもなりそうなんだけど、どっちにも転ばずに淡々と冷静。


「弁明」「アナトーリとぼく」「漂着物」は、ほとんどちんぷんかんぷん。短編はとっかかりが少なくってキビしい。



んで、大蟻食さまは最近もまた、「馬鹿は読むな」とか、読めてないよー、と厳しい言を発してらっしゃる訳なんだが。
単に“君にはむかないよ”っていう親切だと思うんで、一般の読者としては無闇に卑屈になることもないし、好きに読ませろよ、って逆ギレしたりもしなくてよさそうな気がする。
たぶん難しいだろうけど背伸びして読んでみた、とか、やっぱり歯が立たなかったけど興味をもったので「戦争と平和」を読んでみようかと思う、なんていう人のことまで馬鹿呼ばわりはなさらないと思うけど。

評論家は別だろうけど。
最近、笙野頼子の「ドン・キホーテの「論争」」(講談社)を読んだんだけど、評論家を名乗る方々の中には作家に大変な狼藉をはたらく輩がいるのだなあ、と驚き呆れたもので。






コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

「結うこころ―日本髪の美しさとその型」ポーラ文化研究所 [書籍]

ポーラ文化研究所はかなりおもしろい書籍を出してる。

工芸品の展覧会なんかに行くと、装身具、特に簪(かんざし)や髪飾りの展示には必ずと言っていいほどここのコレクションから出展されているので気になった訳なんだけれども、収集資料の質の高さと物量の豊富さもさることながら、出版物の豪儀さも天晴れなのです、ポーラ。
豊富で豪華な写真資料、充実した解説、この内容で定価2500円は安い。素晴らしい仕事。
と思ったら今現在は絶版していてamazonでは20000円超の高値である。こういう良書こそ再版されるべきだと思うんだけどな。
とはいえ、ポーラでCD-ROM版800円也も発行されているようです。個人的には書籍の形態が好みだけど。

amazonのなか見検索で、内容をぱらっと見ることができるので是非にお薦め。
江戸から明治にかけての女性の髪型が再現して結い上げられ、詳細に紹介されています。
この再現がすごい。イラスト説明とかとは迫力が違っていて、百聞は一見にしかず的な明晰さ。
身分や年齢、時代によって違う結い方や飾りの施し方が豊富に掲載されていて、その流行とか変遷についても解説される。

ぱっと見た感じ、「髪、黒っ!」っていうのが最初の印象。
からすの濡れ羽色という言い回しがぴったりの、黒ぐろ艶つや。
かつらをつかって再現されてるんだから髪質をどうこういうのもおかしな話なんだけど、直毛黒髪っていう髪質が美しく映えるように考えられた髪型なんだと思う。だから、黒髪の黒さ、つややかさがぱっと見の印象としてクる。迫力。
そういや、韓国の髪型も黒髪を活かした造形なのかも。「チャングム」とか「ファン・ジニ」の、身分の高い女性や芸妓の髪型とか見ると思い当たる。
巻き毛やカール、逆毛をつくったり粉をうってふわふわさせるスタイルとは違い、まとめ髪の面を平滑に調えたり、あるいはさらさら流したり、つやと毛流れを強調するのが黒髪直毛を活かす特徴なんだろうなー。

簪(かんざし)や笄(こうがい)、手絡(てがら。髪にかける布)、丈長(たけなが。結んだ根元に締める紙帯)とか、様々な飾りも黒髪がより映えるように施されてると思う。
鼈甲(べっこう)の簪なんか、つやつやに調えられた黒髪に挿されると、飴みたいな黄色が黒髪とのコントラストで引き立てあい、クールでセクシーでかっこいい。粋ってやつ。子どもには似合わない感じの取り合わせ。

鬢(びん。横髪)のあたりの張り出し具合は面長な顔立ちに映えるだろうなー、とか、なで肩のほっそりした体格に合う髷(まげ)の大きさのバランスとか、全身トータルのスタイルとして考えても見事なデザインだと思う。

髪型っていう、身近な事柄だけに時代の風俗を反映していて、大変興味深い。




コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

「幕末明治 美人帖」ポーラ文化研究所 [書籍]

幕末から明治にかけての、女性の肖像写真集。
文庫サイズってのがちとナンだけれども、写真の点数も多いしかなり充実したオトク感のある一冊。
おもしろーい。

当然、時代の風俗を反映する装いや出で立ちも興味深いんだけれども、とにかく女性たちの顔がイイ。整った造作の美貌っていうだけではなくって、表情や眼差し、雰囲気、存在の空気みたいなものがありありと写し取られていて、その姿がそれぞれに迫力。気圧される。
イイ顔してる。

おもしろいのが日本初の「深窓令嬢美人コンクール」の写真。
女優とか芸妓とか玄人がモデルになる美人写真じゃなくって、一般の素人女性に規定して新聞社が募集した一大イベントだったらしい。
プロのモデルと違って表情が硬く、あまり愛想もないんだけれど、それぞれに真剣というか、緊張感が漲っていて、存在感が並みじゃない感じ。
記念写真っぽく取り澄ましている中にも、滲み出る人柄というか品性というか、濃厚に立ち顕われる感が見応えのある写真揃い。
写真技師の腕もイイんだと思う。技術的なことだけじゃなくって、モデルから表情や気配を引き出して見せるセンスってところで。


写真を眺めるだけでもおもしろがれるんだけど、編集もクリアーでわかりやすい。
当時の文化風俗をうかがい知るのはもちろんのこと、時代の重要人物の肖像をうかがわせる人物伝としても、写真メディアの果たした役割をはかるメディア論的な観点からも読める。

惜しむらくは表紙の装丁、帯じゃなくって帯ふうにあしらってあるのはビンボーくさくて最悪。
というか、もともと文庫向きの内容ではないと思うんでB5版の愛蔵版の方が正調なんだろうな。




コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

「Strawberry shortcakes」魚喃キリコ [書籍]

魚喃キリコはイタい。
「鳩よ!」('00年9月号/マガジンハウス)で特集が組まれたとき、自筆の落書きが数ページにわたって掲載されてたんだけど、「あたしの金なんだよ! あたしの金なんだよ!」って何度もゴリゴリ書きなぐってあって、どうやらそれは彼氏だか前カレだかに対するものであるらしかった。
うへえ。イタいわー。もっとも、わざとイタい編集にしたんだろうけども。
ぱらっと立ち読みしただけなんだけどよく覚えてる。

椎名林檎もアレだけど、’90年代後半くらいから、ガールズが吠え始めたのかもしれない。

お目々に星をきらめかせて背景に花を散りばめたふわふわ夢みる少女漫画は、’80年代半ばくらい、岡崎京子とか桜沢エリカとか内田春菊あたりから、リアルに等身大に語られはじめる。セックスの描写も含め、恋愛もきれいごとだけじゃなくなった。
個人的によく覚えてるのは、指先に爪が描かれ始めたことかな。それまで手の描写って指の節とか爪とかが省略され、小さく華奢なお人形の手みたいだったんだけど、ストーリーやテーマが等身大を目指すと同時期に絵柄も変化。指先に爪がちゃんと描かれ、体つきや顔立ちや肉感的に、服装やインテリア小物なんかもよりリアルな描写に向かってった印象がある。
(そういう生々しさが苦手な向きは川原泉佐々木倫子遠藤淑子あたりの知的ユーモア・人情ドラマを好み、きらきらな恋愛の夢をみていたい一派は女性性と向き合うのを避けてBL方面に向かった。なんつったら大雑把過ぎかしらん)


それでも、「Strawberry shortcakes」の冒頭には

こんなふうなあたしたちでも ほんとはまるで苺のショートケーキみたいなのよ。

と、謳われてたりする。
“こんなふう”ってのは「あたしの金なんだよ!」的な痛さ、生々しさなんだけど、それでも、女のコなのよ、と。
ふわふわとかわいらしく、子どもみたいに無邪気に甘く、華奢で壊れやすいガールズなのよ。

なんでまたガールズはそんなふうに痛々しく吠えるのかてーと、それがリアルだからってのもあるけど、ある種のアピールなんじゃないかと思う。
女のコはケーキみたいに無邪気でかわいく居てほしいよな、的な何者か(男子はもちろん、親とか周囲のオトナ、得体の知れない世間とか社会とか、さらには自分自身も含めて)に対しての。
こうみえても結構いっぱいいっぱいで鬱積してんだよ。無邪気に見えるかもしんないけど必死なんだよ。甘く見ないで、油断してないでよね、ていう。悲鳴とか、威嚇みたいな。
冒頭のケーキ宣言の締めはこうだもん。

今に見てろよバカヤロー。

なので、たとえば「Strawberry shortcakes」を男子やオトナが読んだとしたら、ウザっ!ってドン退くか、臆してうろたえるしかないだろうと思う。
これらの台詞はそういう、うろたえる男子に向けられてるふうにも読める。
「ま、こんなふうでも、ほんとはかわいいケーキなのよ」って、にっこり言い放つ。「ざまあみろ」って訳です。


とはいえ、ただ単に痛々しい自意識の垂れ流しなら表現として見るに耐えないはずで、そこはそれ、ちゃんと演出が施されている。
キリっとした線のスタイリッシュな絵は、従来の少女漫画の絵柄よりもイラストレーションに近い。漫画的な記号(フラッシュとかナワアミとかの背景、書き文字などの効果)が排されていて、絵の表現は非常に抑制されている。ネーム(セリフやモノローグなど言語表現部分)がなかったら話も登場人物の気持ちもまったくわからないくらいに淡白。
逆に言えばネームがひっじょーに重要。テンション高くってイタさ爆発。
つまりそれはバランスな訳だ。抑制された絵のクールさとネームのはっちゃけ具合の拮抗がキモ。

お話としても冷静な組み立てが為されてる。
息詰まりそうな展開に、息抜き的に挿入される里子のエピソードなんかはイタさを笑う冷静さが垣間見える。
単にぶちまけてるんじゃなくって、効果的にぶちまける。ちゃんとつくってある。



ちなみに映画化されてる。
だけど、これが実写だと生々し過ぎて「あたしの金なんだよ!」的イタさ倍増、ちょっと露悪的なほどイタさが強調されてるみたいでキツかった。
白黒二次元の単純化された漫画の絵柄でさえ、ぎりぎりまで線を省いて抑制されてるのに、これが実写で生身の人間が演じるとなったらもっと抑えてほしいとこだよ。そんなぽんぽん脱いでセックスしたりゲロゲロ吐いたり、ウジウジドロドロされた日にはイタ過ぎて目もあてらんない。キツいわー。
まあそのキツさっていうのは近親憎悪的な嫌悪もたぶんに含まれてて、どうかするとわたしも「あたしの金なんだよ!」で「ざまあみろ」なんだと思う。
イタい女なんか自分だけで充分だっつーのに、この期に及んでイタさ強調ガールズは勘弁です。







コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:コミック

「ミノタウロス」佐藤亜紀 [書籍]

51XN4xVEeWL._SL500_AA240_.jpg

文章を読むということがこれほどスリリングで興奮する行為だということをまざまざと感じる。
佐藤亜紀さまは、わたしにとってそんな作家。

とにかく文章が素敵すぎ。
格好良過ぎる。

ひと通り読んで、話がわかっちゃったらもう読まないとか、そういう小説ではない。
何回読んでもおもしろい。

182ページ、主人公が語る“美しいもの”の描写に戦慄する。
とんでもない。
でも、そのとんでもない光景が、間違いなく美しく描写されている。
「1809-ナポレオン暗殺」でウストリツキ公爵が願った、真の自由の姿。

虱にたかられながら暴力に明け暮れる日々が、おそろしく静かに描かれる。
叙情などという甘さは付け入る隙もなく、恐怖などという劇的な演出もない。
なのに、引きずり込まれるようにむさぼり読んでしまうのはどうした訳か。

小説というのは、物語ではなくてひたすら描写なのだ、と思った次第。


(追記)
上記は’08年9月20日付けの記事。
過去記事にねちねち付け足して日付を新しくして再UP。

ここんとこまた「戦争の法」をもくもく読んだ勢いで「ミノタウロス」もごちごちざくざく読みふけっておったのです。
殺伐と滅入りながらも妙に風通しがいい、ぎっちり詰まった虚無、みたいな読後感。
初読のときにも思ったんだけど、「ミノタウロス」の文章は佐藤亜紀の他の作品に比べて読みづらい。置いて行かれる。
淡々と硬くて冷たい。殺伐と無愛想でごっつい。そんで、剣呑。

今回読んだらえらく滅入った。
別に劇的な盛り上がりがある訳ではないんだけど、じわじわクる。気がついたらひたひたと迫っていて、息を止めて読んでたことに気づく。

269ページ。
人間を人間の格好にさせておくものが何か、ぼくは時々考えることがあった。それがなくなれば定かな形もなくなり、器に流し込まれるままに流し込まれた形になり、更にそこから流れ出して別の形になるのを──ごろつきどもからさえ唾を吐き掛けられ、最低の奴だと罵られてもへらへら笑って後を付いて行き、殺せと言われれば老人でも子供でも殺し、やれと言われれば衆人環視の前でも平気でやり、重宝がられせせら笑われ忌み嫌われる存在になるのを辛うじて食い止めているのは何か。

このくだり。
「ミノタウロス」っていうタイトルとあいまって、重い異物感を持ちながら胃のあたりに居座っている。
“人間を人間の格好にさせておくものとは何か?”


この話は、20世紀についての考察を試みた作品(書店かどこかで行われた対談で語られたらしい。どこで読んだんだかネタ元忘れました)であるらしいんだけど。
いわれてみれば確かに、20世紀って箍が外れた時代だったのかなあ、と思った。







コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

猫漫画あれこれ [書籍]

51Ip09Vs-cL._SS500_.jpg

「カボチャの冒険」
イチオシ猫漫画。漫画っつより劇画なんかな。
表紙の絵だけで即買い。ニャー!って得意そうな感じがたまらんです。瞬殺必殺。

リアルに猫で人間語もしゃべらないんだけど、表情や仕草がすんごくうまくって伝わってくる。そうそう猫ってこんな感じー!って、猫飼いほどニヤつけると思う。
畑とか森ん中でのびのび暮らしてる様子が気持ちいい。
冒険ていうほど何かドラマが起こる訳じゃないけど、何回も読んじゃう。
また、作者=飼い主の愛情が、鬱陶しくなくってよいです。





「チーズ スイートホーム」「ふくふく ふにゃ〜ん」
猫戯画化、キャラクター化漫画の雄は「チーズ スイートホーム」なんだろうなー。(モーニング連載、現在6巻まで出てる。)なんとゴージャスなオールカラーだよ。
描き込みが整理され、スッキリしてて嫌味がない絵だし、お話も他愛無く(いい意味で)無毒無害。かっわいい。

んでも、同じ作者の「ふくふく ふにゃ〜ん」のが甘過ぎなくって好きかな。チーはかわいいんだけど、ときどき幼児語が鼻につく。
ふくふくは人間語しゃべんないけど、猫の動きとか仕草がうまいこと戯画化されてて、擬態語とかつい口に出ちゃう。獲物を狙うときに姿勢を低くしてお尻を“もにもに”ってするのとか、前足で“ていてい”ってやったりするとか、日常便利に使い倒すレベルな擬態語センス。
こういう描写はチーでも発揮されてんだけどね。キャラ的にふくふくが好きかチーが好きかっていう、好みの差なんだろうな。





「プ〜ねこ」
かわいくない系猫漫画の雄(なんだそりゃ)。
だらっとやる気なくって妙に冷めてて人を食ったシニカルな猫キャラがいかにも猫っぽくてハマる。
猫じゃなくてもよさそうなもんなんだけど、でもやっぱり猫キャラだからこそのいい加減さとか勝手気侭さがキいてる。
わたしはすんごい好きなんだけど、裏声で“かわい〜”とか語尾ニャーのメロメロな甘好み猫可愛がり派には向かない。





「猫本」「猫本2」
「ねこもと」「ねこもとニャー」て読む。アンソロジーとかムック本ん中では抜群に作家の揃えが豪華。さすが講談社。

「猫本」では、こなみかなた、北道正幸、山下和美、萩尾望都、小林まこと、諸星大二郎、漆原友紀、伊藤理佐、近藤ようこ、やまだないと、小林賢太郎(ラーメンズ)他、が描いてる。
メインはほとんど「チーズスイートホーム」なんだけど、個人的には小林賢太郎のシュールな猫漫画(「猫本2」では鼻兎も出てくるし)とか近藤ようこの怪奇ものとかがお目当てだったりする。あと、小林まことのインタビューも充実。「What’s Michael?」ってやっぱりすごいわー。おもしろい。
「猫本2」では北道正幸の書き下ろし、青池保子の中世ものあたりが読みどころかなあ。売れ筋では安野モヨコなんかも。

けど、良くも悪くも寄せ集めで、好みに合わない作品も含有されてるんで、そこいらへんはさっ引いておく必要アリ。



あと、猫といえば大島弓子「綿の国星」、「サバ」シリーズ、「グーグーだって猫である」とかは外せないのかもしんないけど、これらはどうも猫的なおもしろさなのかどうかはビミョーな気がする。


タグ: 漫画
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:コミック

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。